明治三十年六月十一日
寺田半兵衞身上願(四五十日前より熱出でいろ/\と悩みにより)明治三十年八月二日
平安支教会長飯田岩治郎事情に付願(神様御下りありと申し立て曰く『この屋敷は二つ無き水屋敷、元なる者は何んと思うぞ、この度は平安より往還の道つける皆心勇み出よ』と、その他種々申し立て尚飯田に月読の神御下り其御指図故本席より誠の神と言って分かり来るとの事に付、平安より役員春木、松尾、田中、森中、西本、重役五名罷出で、本部長へ上申の上本部員立ち会いの上願)明治三十年九月二十四日
富松たみ身上願明治三十年十一月十三日
飯田岩治郎だん/\相つのりしに付、処分方に付願明治三十年十二月十五日
北部内豊岡支教会部内整理上に付、高井猶吉と山中彦七の両名出張の願明治三十年四月十日
木戸上庄右衞門身上願明治三十年八月二十六日
深谷徳次郎小人徳郎並びに次女且つ本人なりそれ/\身上事情願明治三十年十一月十九日
飯尾清蔵身上願(高知部内東新出張所担任)明治三十年一月二十五日
諸井ろく身上願明治三十年三月十七日
増井りん身上願明治三十年四月二十二日
河久保豫章身上三島村にて借宅住居するにより清水与之助、梅谷四郎兵衞の両名世話するに付願明治三十年六月十三日
泉支教会会長小倉芳治郎辞職御許し下されるや願明治三十年八月二日
東部内常陽支教会用地今回茨城県中学校設置に付、その用地の内へ譲り受け度き旨、その筋より懇談あるに付願(併せて献納の儀伺)明治三十年九月二十五日
清水与之助身上願明治三十年十一月十八日
檪本町吉川宗七妻たけ身上願明治三十年十二月十八日
教長、桜井支教会開筵式に付御出張下さる事願明治三十年四月十三日
北村茂兵衞娘もよ身上腫れての願明治三十年九月四日
北村ゑい二十五才身上願(河原町分教会部内)明治三十年十二月三日
岸田只八妻よね三十七才身上願明治三十年一月二十六日
増野正兵衞身上願明治三十年三月二十一日
大裏へホイロ場石灰入れとして七間に二間の建築願明治三十年五月一日
大裏へ米蔵建築御許し願明治三十年六月十五日
春野喜市に梅谷たかを妻に貰い度く、相方家内皆心治まりしに付御許し願明治三十年八月五日
増野正兵衞小人おとも身上願明治三十年九月二十六日 夜
園原村上田たき身上願明治三十年十一月二十日
九つ鳴物の内、三味線を今回薩摩琵琶をかたどりて拵えたに付御許し願明治三十年十二月二十日
撫養部内西香川出張所前地方庁より取り消しに相成りし処、今般担任天満益右衞門にて出願の願明治三十年四月二十四日
木村留吉身上願(城島分教会員函館出張所詰)明治三十年九月八日
臼杵治郎兵衞小人龍蔵三才身上願明治三十年十二月十七日
宮垣藤太郎四十七才身上願明治三十年一月三十日
船場分教会用地として西田佐兵衞より百四十坪献納願明治三十年三月二十二日
永尾楢次郎、桝井伊三郎派出の願明治三十年五月七日
城島分教会担任上村吉三郎出直しに付、後任山田伊八郎を以て願明治三十年六月二十二日
本席四五日以前歯痛みに付願明治三十年八月五日
茨木基敬四十三才身上血が上下三度身上願明治三十年九月二十八日
平野楢蔵出張先にて身上に付願明治三十年十一月二十日(陰暦十月二十六日)
鳴物琴胡弓三味の替わり入るつとめ人衆に付御話明治三十年十二月二十三日 夜
松村吉太郎、飯田岩治郎の件に付上京せし処、その夜より右の足に出来物出来、追々大きく相成るに付願明治三十年五月十五日 夜
山内治三郎目の障り願(東肥支教会長)明治三十年九月十五日
寺田松太郎五十四才身上願明治三十年十二月二十二日
木戸上庄右衞門妻きく身上願明治三十年一月三十日
永尾楢次郎右の目障り願明治三十年三月二十三日
井筒梅治郎未亡人とよ手首腫れものに付願明治三十年五月七日
梅谷四郎兵衞長女たか先月二十八九日頃より左の耳根の歯痛み休み居り、今に痛み治まりませぬに付喜多治郎吉より伺明治三十年六月二十二日
撫養部内西香川出張所県庁より取り消し致せしに付、所々後々心得のため願明治三十年八月十四日
永尾よしゑ身上願明治三十年九月二十九日
増野正兵衞小人おとも身上熱横腹出物の願明治三十年十一月二十二日
各分支教会及び出張所に於て三つ鳴物を奏する御許し願明治三十年十二月二十四日
山沢為造小人ミキノ及びサワの二人身上に付願明治三十年五月二十二日
松尾兵五郎五十九才身上願