明治三十三年十一月五日
空地光治身上願明治三十三年一月四日
本席一昨日より身上御障りに付願明治三十三年一月十九日(陰暦十二月十九日)
中台勘蔵より申し込みに対する、日本橋分教会の地所建物に対する運び方事情に付申し上げ願明治三十三年二月十二日
桝井伊三郎、母きく、安松三人共身上によりその理に付願明治三十三年三月二十一日
本席御身上御障りに付かんろだいへ本席の身上速やか快復次第お伺い申して、そのおさしづ通り、何か運ばして貰いますからと御願してありますが、その事今日まで延行相成り右事情の願明治三十三年四月二十一日
茨木基敬及び妻くに身上願(北分教会長茨木基敬四十六才昨年陰暦十二月頃より喉痛み今日になおりませず、又妻くに三十五才昨年陰暦四月の頃よりぶら/\致し当年の正月十二日頃より故郷の東京の方へ参り医師に掛かりし処、肺とも肋膜とも申し今日の処にては神経を悩みに付、とんと如何の事情掛かり居りますか)明治三十三年五月二十九日
土佐卯之助妻まさ身上願明治三十三年七月十六日
深谷徳次郎小人景三四才身上願明治三十三年九月二十一日
旭日支教会長岡本善六腹痛に付願明治三十三年十月九日
島ケ原部下山形県飽海郡松領町梅本惣吉四男留吉二十三才網島分教会長寺田半兵衞三女小近の養子貰い受ける願(永尾よしゑ仲人にて万田万吉より貰い受くる事)明治三十三年十一月五日
土佐卯之助家族将来三島に居住の願明治三十三年十二月十三日
松尾与蔵小人きぬゑ腹痛に付願明治三十三年三月十一日
中野仲太郎母せつ四十五才目の障りに付願明治三十三年五月十七日
中井のぶ七十一才脊髄身上願明治三十三年七月十三日
下和田長助四十五才身上再び願(前おさしづより、もとの支教会へ引き越す精神定めて居りますが、一時おたすけ蒙り候え共、又候障りに付)明治三十三年十一月二十二日
木下善五郎二十五才身上出物に付願明治三十三年一月四日(陰暦十二月四日)
橋本清の演説を筆記として発行の『天理教会の内幕』という雑誌その筋へ送りしに付、神道本局より一月六日までにその個条々々毎に答えして差し出すように申し来たり、就いては松村吉太郎、山中彦七上京出局の願明治三十三年一月十九日
松村吉太郎身上願明治三十三年二月十二日
平野楢蔵身上願明治三十三年三月二十一日
上田ナライト建物の願(上田たきの身上障りから神様へ御願い申せしそのおさしづに、上田ナライト仕切りて引き寄せるよう運べと仰せ下されしに付、詰員一同相談の上本部長へ申し上げ、建物北の大裏の石屋の仕事場のそばあたりへ建てという事でありますから御許し願)明治三十三年四月二十六日
山口県下奈良支教会萩の講社と高安分教会部内講社と衝突事件に付高安分教会より願明治三十三年五月三十一日
松村ノブの五月三日のおさしづに、天然という御言葉を下された処に、如何の処の事でありますや、押して願(尚小人義孝夜分非常に咳きますから併せて願)明治三十三年七月二十日
城島分教会三輪町大字金屋に於て地所買い入れ、分教会の屋敷地に御許し願明治三十三年九月二十二日
堺支教会役員周旋の妻婦人会を取り結び、教会入社祭の当日婦人等御勤の願明治三十三年十月十一日
過日のおさしづにおさづけ戴きたる人々に、言い渡し致す処書下げと仰せ下されましたが、その日の御諭しの書下げのみの事でありますや、又以前仰せ下されました長き書取りも言い聞かします事でありますか、と押しての願明治三十三年十一月七日
河原町分教会事情願明治三十三年十二月十五日
春野喜市長男貞造身上願明治三十三年三月十二日
岩谷源治四十七才身上願明治三十三年五月二十日
柏木六左衞門三男信次十三才身上願(河原町部内甲賀支教会理事三男)明治三十三年七月二十四日
宇恵凖治妻のぶゑ二十九才身上願明治三十三年十一月二十二日
橋爪太二郎妻いわの四十三才身上障り願(日方役員妻)