明治二十三年八月十二日(陰暦六月二十七日)午後二時五十分
本席胸先つかえ厳しきに付願明治二十三年八月二十二日
村田慶蔵身上悪しきに付願明治二十三年九月三日
おさしづを願うには、今日までは、その事情を本席へ先に申上げて居りましたが、これからは本席へ事情申上げずして運びて宜しきや伺明治二十三年九月九日 朝
飯降さと身上願明治二十三年九月二十七日
山田伊八郎小人身上障りに付願明治二十三年十月十一日
山沢為造喉が切のうて痰がつかえ、咳が出るに付身上願明治二十三年十一月十一日
増野いと神戸へ長く滞在に付、梅谷四郎兵衞訪ねに行く願(いとの精神も併て尋ね)明治二十三年十一月二十二日(陰暦十月十一日)
御諭明治二十三年十二月
中山会長御結婚に付、神戸より飯降政甚も清水与之助供しておぢばへ帰る事の願明治二十三年十二月十七日
清水はる親里の事情願明治二十三四年頃
松村さく伺明治二十三年三月二十一日(陰暦二月朔日)
森本儀三郎妻りと三十二才身上願明治二十三年五月三日
稲見倬三二十一才(播州美嚢郡吉川村ノ内大嶋)明治二十三年六月二十五日
椋野岩治郎十九才(吉野郡北山村大字浦向)明治二十三年十月十二日
横井留吉身上願明治二十三年頃十月十六日
中井宗七目かい障り、三度目伺明治二十三年一月二十三日
飯降政甚兵神分教会へ修行のため暫く趣くの願、清水与之助より明治二十三年二月十六日 朝
本田分教会地所買受けの事、井筒、堀田、中川、寺田、今川、山本、桑原の七名より願(芦津分教会)明治二十三年三月十七日
清水与之助身上の願明治二十三年四月七日
中山会長出張願(会長阿波国撫養支教会開講式に付御出張の儀代理を以てすとのおさしづの処、事情申上げ御許し願)明治二十三年四月二十日
阿波国撫養支教会所定日の願(説教日陽暦三日、十三日、二十三日、月次祭陰暦二十二日、入社祭陰暦十二日)明治二十三年五月一日
春野ゆう神戸へ帰宅し、五日目より俄に寒気立ち発熱し、食事進まず、足の運び悪しく、一時は気が狂いうわ言言い、一時難しいように思いしが、追々御利益蒙りたれど、今に自由出来ず、御救け下さるよう願明治二十三年五月十四日(陰暦三月二十六日)午前一時
刻限御話明治二十三年五月二十六日
春野ゆう前おさしづを頂き、清水与之助より御話伝え下されしも、未だ速かおたすけ蒙り申さず、よってたんのうの事情、いかなる理も悟りますに付、おたすけの願明治二十三年六月十二日(陰暦四月二十五日)
山田こいそ四十才の願明治二十三年六月二十日(陰暦五月四日)午後十二時二十分
本席身上御障りより清水与之助、梅谷四郎兵衞、桝井伊三郎、平野楢蔵、高井猶吉の五名願明治二十三年七月二日
増野道興二三日前より目が塞ぎ居るに付願明治二十三年七月十三日(陰暦五月二十七日)午後八時
本席の歯の痛みに付願明治二十三年七月二十六日
桝井伊三郎普請一条あら/\木の見積もり又同じ事情押して願明治二十三年八月十二日
本席前おさしづ後にて厳しく御障りに付願明治二十三年八月二十三日
船場分教会所表の井戸濁り、内井戸清水に成りしに付心得のため伺明治二十三年九月三日
山中忠七古き道に肥を置き尽したる人に付取扱いの儀願明治二十三年九月十一日 夜十一時
をびやづとめは、今一時の処ひっそにして十二下りの立勤もせず、御面も並べたまゝ静かにする事の願明治二十三年九月二十七日
村田かじ身上障りに付願明治二十三年十月十三日(陰暦八月三十日)
教祖履歴編纂致し度くも委しく知らざるに付、各古き詰員に聞き正し、綴る事に致し、尚不分明の処はおさしづに預り度願明治二十三年十一月十一日
山本利三郎の願明治二十三年十一月二十二日
梶本松治郎、橋本清京都へ派出に付願明治二十三年十二月一日
柏原分教会地方庁不許可の為め志紀分教会と改称致す願明治二十三年十二月十八日
刻限御話明治二十三年一月十日
松村れい五十二才(奈良県高市郡高市村大字岡第九十二番地)明治二十三年三月二十一日
深谷源次郎願明治二十三年五月六日
安井藤市三十才(江州鴨郡綾戸村斯道会百二十六号講元)明治二十三年七月三日
松井善助次男三木造願明治二十三年十一月七日
天野善七身上願明治二十三年頃十月二十八日
中井宗七身出もの、妻ちく腹へ出もの御障伺明治二十三年一月二日(陰暦十二月十二日)
村田長平身上事情願明治二十三年一月二十四日
増野正兵衞身上の居所昨日より、大便の後に血が下り、本日又左の奥歯少し痛むに付伺明治二十三年二月十六日
増野正兵衞食物を上げ、右の足のきびす痛み、道興夜々泣き、乳を戻すに付伺明治二十三年三月十七日
井筒梅治郎一人で行き、立売堀三丁目家屋敷買受の件伺明治二十三年四月七日
増野正兵衞身上障り又いと下りものに付伺