明治四十年四月二日(陰暦二月二十日)午前一時半
上田ナライトの普請南の方へと仰せ下されましたが、いずれの処へと申し上げ明治四十年四月十日(陰暦二月二十八日)午後五時半
だん/\と御諭を受けまして、理の取違いより遂に人を恨みました事も、真の心よりさんげ申し居り、本人まさゑもこれに居ります。今後は如何なる精神も取り決めさして頂くと申し居ります、と申し上げ明治四十年五月二十日(陰暦四月九日)
午前一時より本席身上御障りに付、教長初め一同出席午前三時二十分刻限の御話明治四十年六月六日(陰暦四月二十六日)午後十時
本席御身上激しくに付、教長初め本部員一同出席の上、教長より御苦しう御座いますか、と申し上げ下さる明治四十年四月三日(陰暦二月二十一日)午前二時過
やしき取り除けの事申し上げ後の御話(居合わせし者桝井伊三郎、板倉槌三郎、島村菊太郎、飯降政甚の四名)明治四十年四月十日 午後八時半
本人もまさゑもおさしづの理を定め、西のきぬゑを貰い受ける事決心致しまして御座ります、と申し上げ明治四十年五月二十一日(陰暦四月十日)午前二時半
刻限御話明治四十年六月七日(陰暦四月二十七日)午前二時(大声にて)
,お-い/\。よ-い/\そりゃ行け/\。よい/\、今よい/\。そりゃ/\、うむ/\/\。明治四十年四月四日(陰暦二月二十二日)午後十一時四十分
刻限御話明治四十年四月十一日(陰暦二月二十九日)午後四時半
昨日を以ておさしづの処も大抵運び方付きしよう思いますが、本席の御身上未だ速やかなりませんが、何か道の上御知らせ下さる事ありますか願明治四十年五月三十日(陰暦四月十九日)正午十二時半
本席中食膳の時身上御障り俄かに激しく、教長初め一同出席直ちに刻限の御諭明治四十年六月七日(陰暦四月二十七日)午前九時
教長より、各分支教会長も帰り居りますし、本部員一同かんろだいへ今夜十時より十二下り本勤め致しまして本席御身上を速やかになって下さるよう願い上げます明治四十年四月五日(陰暦二月二十三日)
昨夜の刻限申し上げ、尚外に御聞かし下さる事ありますれば御聞かし下され度しと願明治四十年四月十二日(陰暦二月三十日)朝七時頃
昨夜より又々身上御障りの処、今朝俄かに激しく相成りしに付、教長初め本部員一同揃って御伺いに出でし時に明治四十年五月三十日(陰暦四月十九日)午後三時
本席身上又激しく迫り、教長初め一同出席刻限の御諭明治四十年六月九日(陰暦四月二十九日)午前九時
昨日分支教会長普請の事に付会議を開き、本席の御身上も普請の上から御苦しみ下さる事でありますから、部下教会長一同わらじの紐を解かず一身を粉にしても働かさして頂き、毎月少しずつでも集まりたるだけ本部へ納めさして頂く事に決め申しました、と御返事申し上ぐ明治四十年四月六日(陰暦二月二十四日)
昨夜のおさしづ読み上げ、派を分けるという事お尋ね申し上げます明治四十年四月十三日(陰暦三月一日)朝六時半
御話、本席身上御障り厳しくに付、平野楢蔵より御身上切のう御座りますか皆こちらへ呼びますと申し上げ、しばらくしてから御諭明治四十年五月三十日(陰暦四月十九日)午後十時
本席御身上又々激しく相成り、刻限の御諭明治四十年一月二十六日
宮田サト及び次女ハナ身上願(芦津分教会役員宮田善蔵妻サト四年以前より身上不足、尚主人善蔵本月二十三日出直し致し、次女ハナ父の病気中又々病発し目下危篤、斯くの如く一家揃うての事は、何か御知らせ下さるものか願)明治四十年一月十六日
平野楢蔵六十日程以前より身上不足に付願明治四十年四月七日(陰暦二月二日)午前一時五十分
昨日の運び方、明日になれば松村も帰りますから、談じまして一手一つに運び方致しますが、何か他に御聞かせ下され度しと申し上げ明治四十年四月十四日(陰暦三月二日)午前九時半
昨朝のおさしづ読み上げし後の刻限明治四十年五月三十日 午後十二時半
本席又々身上迫り、一同出席の上前のおさしづ読み上げて後の、刻限のおさしづなり明治四十年三月二十六日
藤江□太郎二十七才宇野猶人妹きん二十六才結婚願(河原町部内大垣支教会長藤江、支教会役員宇野)明治四十年一月二十日
平野楢蔵先日のおさしづの中角目の処普請に付願明治四十年四月七日(陰暦二月二十五日)午前二時半
本部の会計と学校の会計と一つにと申し上げ明治四十年四月十四日(陰暦三月二日)午後八時半
今朝刻限の中にぢばに割り方と仰せ下されましたが、いかがの事に致しまして宜しきや願明治四十年五月三十一日(陰暦四月二十日)午前六時
本席御身上激しく苦痛に付、教長初め本部員一同出席の上刻限の御諭明治四十年一月二十日
上田楢太郎二十五才梶本ミチ十九才結婚願明治四十年四月七日(陰暦二月二十五日)午前九時半頃
夜前のおさしづ読み上げの後、学校の方の領収証も本部の名義で出すという事を教長御認可になりました、と申し上げ明治四十年四月十五日(陰暦三月三日)午前二時
昨夜のおさしづを教長に申し上げし処、教長の仰せには我の心は親神様御承知故、皆一同精神を定めて御願いせよとの事に付、一同おさしづ通り守ります願明治四十年六月三日(陰暦四月二十三日)
午前一時より本席身上御障り少々相増しゝ処、今朝八時頃より激しく相成り九時に到り苦痛激甚に付、教長初め一同出席の上刻限の御諭明治四十年二月九日
堺支教会南野好松母くに及び小児身上願明治四十年四月七日(陰暦二月二十五日)午後九時三十分
多人数の中へにをいがけと仰せ下さる故、明日は分教会長も帰りますが不参の者へは手紙を出して呼び寄せ話致します、と申し上ぐ明治四十年四月二十二日
梶本国治郎二十二才おさづけおさしづ明治四十年六月四日(陰暦四月二十四日)
午前一時より本席御身上御障りの処午前四時に到り苦痛激しく相成り、教長初め本部員一同出席午後四時半刻限の御諭明治四十年二月十日
芦津分教会役員宮田佐蔵二十九才井筒ふみ二十四才結婚願明治四十年四月八日(陰暦二月二十六日)午前六時
未だ御身上すっきり致しませんが、何か運ぶべき事ありますか、と申し上げ明治四十年五月四日
梶本ミキヱ先達ては結構におさづけを頂きましたが、一週間程以前より身上余程激しくなりまして食事もしませず、と申し上げ明治四十年六月四日(陰暦四月二十四日)
午後十一時本席御身上御障りに付、教長初め宿直本部員一同出席の上、十二時刻限の御諭明治四十年二月二十一日
旭日支教会移転願明治四十年四月八日(陰暦二月二十六日)午前八時半
まさゑの事に付、十年来以前川久保との縁談の事に付、おさしづの内に理の発散出来ん事ある故、理の発散すれば宜しと申して居りますと、政甚より勝手に願明治四十年五月八日(陰暦三月二十六日)
七日午後十一時半頃より本席身上御障り、八日午前一時俄かに激しく相成りしに付、一統出席後刻限の御話明治四十年六月五日(陰暦四月二十五日)
午前一時半より本席身上御障り激しくに付、教長初め宿直本部員一同出席の上刻限の御諭明治四十年二月二十六日
湖東部内名古屋支教会長近藤嘉七中山重吉の次男寅次郎二十才養嗣子に貰い受け度く願明治四十年四月八日
一同一先ず引き取り、しばらくして飯降より姉まさゑの処、理の取違いの処は御詫び申し上げ明治四十年五月八日(陰暦三月二十六日)午前二時
明日やしきの間数差して申し上げます明治四十年六月五日(陰暦四月二十五日)
本席身上昨夜より苦痛止まざるに付、教長初め本部員一同親神様に御用の外は身上御楽に成し下されと祈願して本席の前へ出席の上午前八時半刻限の御諭明治四十年三月四日
梶本ミキヱ二十五才の処へ福塚信四郎三男秀雄二十七才なる者養子に貰い受け度く願