明治四十年四月六日(陰暦二月二十四日)
昨夜のおさしづ読み上げ、派を分けるという事お尋ね申し上げます明治四十年四月十三日(陰暦三月一日)朝六時半
御話、本席身上御障り厳しくに付、平野楢蔵より御身上切のう御座りますか皆こちらへ呼びますと申し上げ、しばらくしてから御諭明治四十年五月三十日(陰暦四月十九日)午後十時
本席御身上又々激しく相成り、刻限の御諭明治四十年一月二十六日
宮田サト及び次女ハナ身上願(芦津分教会役員宮田善蔵妻サト四年以前より身上不足、尚主人善蔵本月二十三日出直し致し、次女ハナ父の病気中又々病発し目下危篤、斯くの如く一家揃うての事は、何か御知らせ下さるものか願)明治四十年一月十六日
平野楢蔵六十日程以前より身上不足に付願明治四十年四月七日(陰暦二月二日)午前一時五十分
昨日の運び方、明日になれば松村も帰りますから、談じまして一手一つに運び方致しますが、何か他に御聞かせ下され度しと申し上げ明治四十年四月十四日(陰暦三月二日)午前九時半
昨朝のおさしづ読み上げし後の刻限明治四十年五月三十日 午後十二時半
本席又々身上迫り、一同出席の上前のおさしづ読み上げて後の、刻限のおさしづなり明治四十年三月二十六日
藤江□太郎二十七才宇野猶人妹きん二十六才結婚願(河原町部内大垣支教会長藤江、支教会役員宇野)明治四十年一月二十日
平野楢蔵先日のおさしづの中角目の処普請に付願明治四十年四月七日(陰暦二月二十五日)午前二時半
本部の会計と学校の会計と一つにと申し上げ明治四十年四月十四日(陰暦三月二日)午後八時半
今朝刻限の中にぢばに割り方と仰せ下されましたが、いかがの事に致しまして宜しきや願明治四十年五月三十一日(陰暦四月二十日)午前六時
本席御身上激しく苦痛に付、教長初め本部員一同出席の上刻限の御諭明治四十年一月二十日
上田楢太郎二十五才梶本ミチ十九才結婚願明治四十年四月七日(陰暦二月二十五日)午前九時半頃
夜前のおさしづ読み上げの後、学校の方の領収証も本部の名義で出すという事を教長御認可になりました、と申し上げ明治四十年四月十五日(陰暦三月三日)午前二時
昨夜のおさしづを教長に申し上げし処、教長の仰せには我の心は親神様御承知故、皆一同精神を定めて御願いせよとの事に付、一同おさしづ通り守ります願明治四十年六月三日(陰暦四月二十三日)
午前一時より本席身上御障り少々相増しゝ処、今朝八時頃より激しく相成り九時に到り苦痛激甚に付、教長初め一同出席の上刻限の御諭明治四十年二月九日
堺支教会南野好松母くに及び小児身上願明治四十年四月七日(陰暦二月二十五日)午後九時三十分
多人数の中へにをいがけと仰せ下さる故、明日は分教会長も帰りますが不参の者へは手紙を出して呼び寄せ話致します、と申し上ぐ明治四十年四月二十二日
梶本国治郎二十二才おさづけおさしづ明治四十年六月四日(陰暦四月二十四日)
午前一時より本席御身上御障りの処午前四時に到り苦痛激しく相成り、教長初め本部員一同出席午後四時半刻限の御諭明治四十年二月十日
芦津分教会役員宮田佐蔵二十九才井筒ふみ二十四才結婚願明治四十年四月八日(陰暦二月二十六日)午前六時
未だ御身上すっきり致しませんが、何か運ぶべき事ありますか、と申し上げ明治四十年五月四日
梶本ミキヱ先達ては結構におさづけを頂きましたが、一週間程以前より身上余程激しくなりまして食事もしませず、と申し上げ明治四十年六月四日(陰暦四月二十四日)
午後十一時本席御身上御障りに付、教長初め宿直本部員一同出席の上、十二時刻限の御諭明治四十年二月二十一日
旭日支教会移転願明治四十年四月八日(陰暦二月二十六日)午前八時半
まさゑの事に付、十年来以前川久保との縁談の事に付、おさしづの内に理の発散出来ん事ある故、理の発散すれば宜しと申して居りますと、政甚より勝手に願明治四十年五月八日(陰暦三月二十六日)
七日午後十一時半頃より本席身上御障り、八日午前一時俄かに激しく相成りしに付、一統出席後刻限の御話明治四十年六月五日(陰暦四月二十五日)
午前一時半より本席身上御障り激しくに付、教長初め宿直本部員一同出席の上刻限の御諭明治四十年二月二十六日
湖東部内名古屋支教会長近藤嘉七中山重吉の次男寅次郎二十才養嗣子に貰い受け度く願明治四十年四月八日
一同一先ず引き取り、しばらくして飯降より姉まさゑの処、理の取違いの処は御詫び申し上げ明治四十年五月八日(陰暦三月二十六日)午前二時
明日やしきの間数差して申し上げます明治四十年六月五日(陰暦四月二十五日)
本席身上昨夜より苦痛止まざるに付、教長初め本部員一同親神様に御用の外は身上御楽に成し下されと祈願して本席の前へ出席の上午前八時半刻限の御諭明治四十年三月四日
梶本ミキヱ二十五才の処へ福塚信四郎三男秀雄二十七才なる者養子に貰い受け度く願明治四十年四月九日(陰暦二月二十七日)午前一時
刻限明治四十年五月八日(陰暦三月二十六日)夜十二時過ぎ
昨夜刻限にやしきの東西南北何間何尺計れとの事でありますから、今朝間数計り御両名へ申し上げし処、仰せには大図面引けとの事故、奥村へ申し付けてありますが、尚御身上速やかなりませんのは、他に何か御聴かし下さる事ありますか、教長始め一同揃うて居りますと申し上ぐ明治四十年六月五日(陰暦四月二十五日)午後二時
本席身上苦痛激しくに付、教長初め本部員一同出席の上刻限の御諭明治四十年三月十三日(陰暦正月二十九日)午前八時三十分
平野楢蔵とお話しありし時、俄かに刻限の話明治四十年四月九日 午前三時
又々御身上迫り内々一統心を定め、さんげは致し居りますから、御許しの程願い上げます明治四十年五月九日(陰暦三月二十七日)午前五時半
夜前のおさしづ読み上げ後、刻限の御話明治四十年六月五日(陰暦四月二十五日)午後三時
前のおさしづに付会議中又々御身上苦痛激しく成られ、教長初め一同出席後刻限の御諭明治四十年三月十三日 午後八時頃
上田ナライトの普請の事情、尚増野正兵衞会計の事情話しの時に俄かに御話明治四十年四月九日(陰暦二月二十七日)午後九時半
内々姉弟一統前おさしづより理の取違いの処だん/\さんげ致し、この度の親神様の御自由を見せて頂き恐れ入り、心身に取りきわめ、今後本席へは孝心の道を供え、安心して頂きます、又姉まさゑは今朝より少々身に患いを受けて居りますから、尚々出来る限りのさんげ致します、又平野楢蔵にもだん/\御諭貰い居ります事で、と政甚より申し上げるや直ちに明治四十年五月十三日(陰暦四月二日)
午前一時より本席身上御障り俄かに激しく相成りし故、教長初め本部員一同出席後二時刻限の御話明治四十年六月五日(陰暦四月二十五日)午後十時二十分
本席身上苦痛又々激しく相成り、教長初め本部員一同出席の後教長と受け答え明治四十年三月二十二日(陰暦二月九日)
上田ナライト建物の屋敷どの辺という処願明治四十年四月十日(陰暦二月二十八日)午前一時
明日席運ぶと仰せ下されますが、多人数待って居りませず、尚御身上すぐれずありますから、御休み下され度しと、平野楢蔵より申し上げし処へ、しばらくしての御言葉明治四十年五月十七日(陰暦四月六日)午前三時半
十二時過ぎより本席身上激しく障りの処三時に到り俄かに激しく相成り、教長初め一同揃うて居ります、何か御聴かし下さる事ありますか、と願明治四十年六月六日(陰暦四月二十六日)午前四時半
本席苦痛激しくに付、教長始め一同出席す明治四十年四月二日(陰暦二月二十日)午前一時半
上田ナライトの普請南の方へと仰せ下されましたが、いずれの処へと申し上げ