百日のおさしづ-天理教の用語-
目次
百日のおさしづ(ひゃくにちのおさしづ)について
飯降伊蔵は明治40年(1907年)6月9日(陰暦4月29日)75歳で出直した。
その出直しの3カ月前から集中的に「おさしづ」が出されている。
その1つに、「十年掛かる話、百日で止(とど)めて了う」(さ40.6.5)と言われている。
これは、明治40年3月13日より6月9日にわたる約百日間に、本来なら10年掛かって述べる話を集約して話しておくとのことである。
このことより、この期間の「おさしづ」を、「百日のおさしづ」と通称している。
これが天理教の「おさしづ」として最後の啓示とされている。
その内容は
- 「さづけ」を渡す後継者について
- 本部神殿建築について
- 飯降家に関する「三軒三棟」のこと
などである。
「さづけ」を渡す後継者について
(1)おさづけの取次者については、飯降伊蔵亡き後、誰がなるか決定していなかった。
6月6日午前4時半の「おさしづ」で、上田ナライトを「さづけ」を渡す後継者(「つなぎ」「継目」と言われている)に指名され、そのさづけは、「あしきはらいのさづけ」であるとのさしづであった。
本部神殿建築について
(2)本部神殿建築については、明治39年教祖20年祭を勤めた後に、来る9年後の教祖30年祭を迎えるに当り、心を結集して事に当たるよう神意を示されている。
「三箇年の模様、五箇年の普請」(さ40.5・8)
すなわちこの普請に当たり3年間準備にかかり、5年かけて建築をするようにとの「おさしづ」であった。
この神殿普請の提唱により、教団としては懸命な努力が続けられ、大正2年(1913)12月本部神殿(現在の北礼拝殿)、大正3年4月には教祖殿の完成をみるに至った(大正普請)。
飯降家に関する「三軒三棟」のこと
(3)三軒三棟については、飯降伊蔵本席の3人の子供、永尾よしみ、飯降まさ忍、政甚の3軒のうち、まさに後継者がないので、1軒が立っていない、という点について神意のあるところを示されたものである。