飯降伊蔵について-天理教の人物-

飯降伊蔵は天理教を信仰していた人物で、本席という立場になった人物です。

教祖が教祖ご在世(ざいせい)時代からの信仰者で天理教史でも重要な人物です。「三つの宝」と呼ばれれる朝起き・正直・働きについての逸話や「一粒万倍」、天の定規といった逸話が有名です。

飯降伊蔵(いぶりいぞう)概略

出来事
天保4年(1883年)大和国宇陀郡向渕村(現、奈良県宇陀郡室生村大字向淵)に誕生
安政元年(1854年)生家の向渕(むこうじ)村から櫟本村へ出て、大工として身を立てる。
元治元年(1864年)妻の身上をたすけられて天理教へ入信。
つとめ場所の普請を責任をもって仕上げる。
明治8年(1875年)ごろ言上の許しを頂き、神意を取り次ぐ
明治15年(1882年)一家をあげてお屋敷へ入り込む。
明治20(1887年)3月25日、本席と定まる。
飯降伊蔵概略

飯降伊蔵の生い立ちと生涯

飯降伊蔵
飯降伊蔵

飯降伊蔵の幼少期

「本席」として、さしづを伝え、さづけを渡された飯降伊蔵は、天保4年(1833)12月28日、大和国宇陀郡向渕村(現、奈良県宇陀郡室生村大字向淵)に飯降文右衛門、れいの四男亀松として生まれた。

5人兄弟姉妹の5番目であった。

8歳の頃から寺子屋に通い、14歳の時、車大工のもとで修業を始めた。

安政2年(1855)22歳の頃、櫟本に出て、従姉の夫のもとで大工修業を続けた。
結婚をしたが、死別。まもなく再婚したが、離縁。

文久元年(1861)、29歳の時、小夫村の馬場武右衛門の長女さと28歳と結婚し、櫟本字高品に移った。

飯降伊蔵の入信

元治元年(1864)5月、2度目の流産をしたさとが床に就いた。

椿尾村の大工・喜三郎(異説あり)から「庄屋敷村に産に妙のある神様が現れた」と教えられ、大急ぎでおぢばに参詣、散薬を頂いて帰る。

翌日は朝と夕に参詣。

3日後には自分で食事をするまでになった(『稿本天理教教祖伝』49-51頁参照)。

時に伊蔵32歳、さと31歳。この頃、教祖(おやさま)は

「待っていた/\。思惑の大工が来た。八方の神が手を打って待っている」と仰せられている

(おさしづ 明治34年5月25日)

6月25日、伊蔵夫婦は揃ってお礼参りをした。

勤め場所の普請の始まり

翌7月26日、おぢばに参拝してお社の献納を申し上げた。

ここに「つとめ場所」の普請が始まる(『稿本天理教教祖伝』53-55頁参照)。

この日、伊蔵夫婦は、ともに扇と御幣のさづけを頂いた。

教祖は「大工は伏せ込んだ」と仰せられたという。

つとめ場所は、伊蔵の手で10月26日に上棟。

お祝いをしたが酒が足りず、さとは酒屋に走った。
しかし貸してもらえず、代金の代わりに帯を置いてようやく1升の酒を持って帰っている。

翌27日、大和神社の事件となり、伊蔵も3日間留め置かれた。

できかけていた講社もバタリと止まった(『稿本天理教教祖伝』56-58頁参照)。

しかし、伊蔵は独りで普請を引き受けた。

同年末の26日、一旦櫟本へ帰り、翌27日、また戻って材木屋と瓦屋に支払いを断りに行っている(『稿本天理教教祖伝』60-61頁参照)。

つとめ場所は年が明けてできあがった。

つとめ場所の完成以降

つとめ場所(天理教ホームページより転載)
つとめ場所(天理教ホームページより転載)

伊蔵夫婦は、普請の時からおやしきに詰め切り、元治元年から慶応2年(1866)頃まで約3年間住み込んだ(「翁より聞きし咄」)。

「おさしづ」には

「どちらこちら草生え……その時貰い受け、荷物持ってやしきへ伏せ込んだ一つの理、」
とある。

おさしづ明治31年8月26日

ときには、秀司、こかんと夜更けまで、

「神様はこう言やはるけれど、先は案じるで。お前はどう思うで。」

おさしづ明治31年8月26日


と語り合うこともあった。

ある年の暮、夜12時過ぎに、寒いから暖まりたいと柴を探したが何もなく、松葉を焚いて差し上げたこともあるという(さ29・3・31参照)。

慶応元年6月の夕方、僧侶が乱入し、こかんが応対した。

伊蔵は隣の6畳で身構えていた(さ31・12・31参照)。

同年10月の助造事件の時は、針ヶ別所村まで教祖のお伴をした。

慶応2年8月、長女よしゑが生まれた。

教祖は名前を付け、「親子諸共伏せ込んだ」と言われたという(さ31・8・2参照)。

櫟本に戻る

この頃、伊蔵は櫟本へ戻った。

昼は大工仕事をしたが、おやしきへは毎日通った。

元治元年から明治5年(1872)まで丸9年間、大晦日におやしきへ帰るのは伊蔵一人だけであった(さ34・5・25参照)。

掃除をし、神祭りをし、夕食も済ませて家に帰った。

慶応4年冬、長男政治郎誕生。

明治4年4月、二女まさゑ誕生。

しかし同年、政治郎は出直した。

ある日、教祖はさとに「政治郎を返してやるで。今度できたら男やで」と仰せになり、政甚と名付けられた(さ33・3・29参照)。

この頃、教祖は筆を取り4首の歌を書いて渡された。

後年の「おさしづ」には、

「最初先になれば、どうなるという話から楽しまして、一筆書いて、理を頼りに連れて来た道である。」

(さ 31・12・31)


とある。

「朝起き、正直、働き」「一粒万倍」

同じ頃、教祖から「朝起き、正直、働き」「一粒万倍」についての言葉も聞かせて頂いている。

明治5年頃までの約10年間、手伝いに来るのはほとんど伊蔵だけであった。

後年の「おさしづ」には

「三十年以来親子諸共という、これ杖柱という理、」

(さ30・8・14)

とある。

明治6年、伊蔵は仰せにより、かんろだいの雛形をつくった。

明治7年、二男政甚が生れた。

教祖は「先に名前を付けてあるで」と喜ばれた。

明治8年9月、こかん出直し。

伊蔵は中南の門屋の普請に掛かっていた。

さとは子供の小遣いにでもと小店をだしたが、貸し倒れなどで間もなく廃業。

この頃、伊蔵はよく夜中に起き上がり、「国々所々名称の旗や提灯立てに来るで。」などと言ったが、自分では覚えていなかった。

この前後に、伊蔵は、「言上の許し」を頂いた。

明治12年、小二階、明治14年には内蔵を建てた。

4月に秀司が出直した。

お屋敷へ再び住み込む

教祖は「一日も早く屋敷へ帰るよう」と繰り返し言われていた。

その度に決心をしてみるものの、延び延びになっていた。

明治14年、櫟本で普請中、踏み台にしていた樽がこけて投げ出され、戸板でおぢばに運ばれた。

教祖は「神が落としたと仰っしゃるで」と仰せられたという。

しばらく仕事を休んだが、まさゑは眼病、政甚も口が聞けなくなった。

さとがお願いにあがると「政治郎のことを覚えているかえ」などと仰せられ、さとは、帰らせて頂くと誓った。

伊蔵に相談すると、今まで通りの信心を続けるのがよい、と言う。

板挟みになったが、9月、さとは、まさゑ11歳、政甚8歳の二人を連れてお屋敷に住み込んだ(『稿本天理教教祖伝逸話篇』148頁参照)。

伊蔵も、翌15年3月、よしゑ17歳とともに住み込んだ(『稿本天理教教祖伝逸話篇』164頁参照)。

伊蔵49歳、さと48歳であった。

翌4月、中山家の宿屋と空風呂は、さと名義に切り替えた。

この頃、伊蔵は内職にお社を拵え、子供の養育費にあてていた。

教祖は『お前も辛かろうなあ。しかし,先になれば難儀するにも難儀でけん」と慰められたという。

伊蔵は慣れぬ鍬を手に百姓仕事もしていた。

山仕事にも行った。

食事はいつもカマドをお膳の代わりにしていた。

さとは、ご飯炊きや下働きをしていた。

後年の「おさしづ」には、「百姓から肥えはきまでしてきた者」(さ32・8・26)とある。

明治15年頃からは「仕事場」と呼ばれて真意を伝えることが多くなる。

教祖に伺うと「伊蔵さんに聞いてこい」と仰せられることも度々であった。

飯降伊蔵「本席」となる

本席についてコチラを参考ください。

明治20年2月18日(陰暦正月26日)、教祖は現身を隠された。

3月11日、伊蔵は身体がだるくなり床に就き、日に日に衰弱した。

全身に汗が出て、飴のように糸を引いたときもある。

その間も、「おさしづ」は毎日あった。
17日には、

「さあ/\これからは綾錦の仕事場。錦を仕立てるで。」

(さ20・3・17)

とあり、3月25日、

「さあ/\本席と承知が出けたか/\。」

(さ20・3・25)

とさしづがあった。

真柱より、本席と承知、と答え、伊蔵は「本席」と定まり、さしづを伝えることになった(55歳)。

翌26日夜、最初のおさづけを渡している。

後年の「おさしづ」には、

「十二下りの止めは大工、」

(さ31・7・14)

「大工に委せると言うたる。」

(さ34・5・25)

「ふでさきにも出してある。元々の話聞いて成程の理と思うだけの者貰い受けた。」

(さ27・3・4)

とある。

また、

「三人五人十人同じ同席と言う。その内に、綾錦のその上へ絹を着せたようなものである。」

(さ20・3・25)

とあるが、

「同じ同格と言う。大いの間違い跨りある。……掛かりどうも難しいてならなんだ。その時杖柱にした。」

(さ31・8・2)

ともある。

明治20年4月、長女よしゑは上田楢治郎と結婚、間もなく永尾家を立てた。

明治15年、本席が住み込んだ時は内蔵の中2階6畳に住んだ。

御休息所普請にともない明治15年10月頃からは小二階と呼ばれる建物の下に移り、竣工後は、中南の門屋に移った。
明治22年5月、本席宅が新築され、一家はそこに移った。

26年3月18日、妻さとが出直した。同日夜の刻限には、

「御席さん/\45年の間、まことに悠るりとさして貰ろた。」(さ26・3・18)
と、さとの気持ちが語られている。

しかし、明治25年8月には改めて本席宅の、普請を促され、翌26年12月、本席御用場竣工。

同3日、引き移り。この時、よしゑ、まさゑがお伴できなかったので一時古家に戻る。

従来の本席宅は、永尾宅となった。

本席の食事は永尾家で世話をした。

明治28年、政甚は宮川小梅と結婚。

明治32年10月、永尾楢治郎出直し。

32年11月、御用場の南に一軒新築された。

本席となって後は、各地の教会へ巡教もした。

明治23年、大阪。24年、東京、静岡。25年、大阪。和歌山。26年、大阪。27年、兵庫、岡山、高知。28年、三重、東京。30年、東京。その他。

こうした折には、どんな人にも心安く話し掛けた。

教祖の墓地へ参拝する時なども、帽子をとって、(皆さん、ご苦労さん、ご苦労さん」と挨拶した。

帽子を取って挨拶するとき頭にはまだちょんまげがあった。

百日のおさしづの始まり

明治40年3月13日、「百日のおさしづ」が始まる。

本席となってからは、度々身上となっているが、この時も間もなく身上となった。

まず、上田ナライト宅の普請を急き込まれ、4月2日に地所が決まった。

4月8日から10日までは、3人の子供について、心の置き所を仕込まれた。

また、3月22日、「今度教祖の普請に掛かる」、4月5日、「三十年祭々々々々」(さ40・4・5)と、普請をさしづされた。

数日間は気分もよく、建築用材を山へ見にも行かれた。

5月8日(陰暦3月26日)、「二十六日夜定まったという声を」とのさしづに、真柱より、「分かりまして御座ります」と答え、6月3日には、普請の計画もほぼ決まった。

同月6日早朝、おさづけをナライトに運ばせることになった。

この時「肩の荷が降りた」と言われ、この日から子供のように無邪気になった。

9日朝、一旦息が切れたが、息を吹き返し、昼食もとった。

そして「おおきにご馳走さん」と礼を言ったが、両手を膝に置いたまま出直した。

時に明治40年6月9日、享年75歳であった。

葬儀は、7日間通夜をした後、15日に執行。

「席と言えば皆下のように思うなれども、ひながたと思えばなか/\の理がある。」(さ22・10・9)
と言われる生涯であった。

飯降伊蔵が出てくる教祖殿逸話篇

飯降伊蔵に関係する教祖伝逸話篇を上げました。

どれも有名な逸話で、天理教信者なら聞いたことがあるのではないでしょうか?

逸話篇 29 「三つの宝」

伊蔵が、仰せ通りに掌を拡げると、教祖は、籾を三粒持って、
 「これは朝起き、これは正直、これは働きやで。」
と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、
 「この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで。」
と、仰せられた。

 逸話篇 30 「一粒万倍」

「人間は、これやで。一粒の真実を蒔いたら、一年経てば二百粒から三百粒になる。二年目には、何万という数になる。これを、一粒万倍と言うのやで。三年目には、大和一国に蒔く程になるで。」

 逸話篇 31 「天の定規」

「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで。」

 逸話篇 87 「人が好くから」


「人が好くから神も好くのやで。人が惜しがる間は神も惜しがる。人の好く間は神も楽しみや。」

「子供があるので楽しみや。親ばっかりでは楽しみがない。早よう帰って来いや。」

  逸話篇 98 「万劫末代」

 明治十五年三月二十六日(陰暦二月八日)、飯降伊蔵が、すっかり櫟本を引き払うて、教祖の御許へ帰らせて頂いた時、教祖は、
 「これから、一つの世帯、一つの家内と定めて、伏せ込んだ。万劫末代動いてはいかん、動かしてはならん。」
と、お言葉を下された。

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