天理教してはいけないこと。戒律やタブーはあるのか?

宗教によっては、戒律やタブーがある場合があります。

例えば、キリスト教では数字の「13」が不吉であったり、カトリックでは離婚や妊娠中絶が禁じられていたり、さまざまさな性に関するタブーがります。

イスラム教では、左手は不浄な手とされており、左手での握手などが禁物となっています。

有名な宗教をみても多くの戒律がありますが、天理教はしてはいけないことはあるのか紹介していきます。

天理教には戒律やタブーといった規則はない

天理教では戒律やタブーといった規則はありません。

食べてはいけない物はありませんし、断食をしなければならない日もありません。

食事の前後に手をたたく方もおられますが、そういった決まりもありません。

戒律やタブーではないが、天理教のルール・決まりや作法みたいなもの

天理教では参拝の仕方が決まっています。
参拝の仕方は

座った時の参拝の仕方

  1. 両手をついて一拝する
  2. 頭を上げて4回てをたたく
  3. 両手をついて礼拝
  4. 頭を上げて、4回手をたたく
  5. 両手をついて一拝する。

4拍手する点は他ではあまり見ない参拝の仕方です。

戒律はないが、間違った心遣い「八つのほこり」がある

親神様(天理教の神様)の思し召しに沿わない心づかいを「ほこり」にたとえて諭しており、それを「八つのほこり」と言います。

例えば、ほこりは吹けば飛ぶような些細ささいなものですが、油断をしているといつの間にか積もり重なり、ついには、ちょっとやそっとではきれいにならなくなります。

それと同様に、神様の思し召しに適かなわない自分中心の勝手な心を使っていると、心は濁って、神様の思し召しも悟れなければ、神様から十分なご守護も頂けなくなります。これが怪我や、家庭や職場でのトラブルとなって現れます。

このほこりの心づかいを反省し、払う手掛かりとして、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八つのほこりを挙げ、さらに「うそとついしょこれきらい」と心づかいの間違いを戒められています。

をしい
心の働き、身の働きを惜しみ、税金や納めるべき物を出し惜しむ。また、世のため、人のための相応の務めを欠き、あるいは、借りた物を返すのを惜しんだり、嫌なことを人にさせて自分は楽をしたいという心。

ほしい
努力を怠り、十分な働きもしないで金銭を欲しがり、分不相応に良い物を着たい、食べたい、また、何によらず、あるがうえにも欲しいという心。

にくい
人の助言や忠告をかえって悪く取って、その人を憎む。また、嫁姑など身内同士の憎み合い。さらには、人の陰口を言ってそしり、笑い、あるいは罪を憎まず人を憎むという心。

かわい
自分さえ良ければ人はどうでもよい。わが子への愛に引かされて食べ物、着物の好き嫌いを言わせ、仕込むべきことも仕込まず、間違ったことも注意しないで、気ままにさせておくという心。また、自分のために人を悪く言うのもほこり。

うらみ
体面を傷つけた、望みを妨げた、どう言ったと自分の不徳を思わず、人を恨み、根に持つような心。

はらだち
人が悪いことを言った、意に反することをしたと腹を立てる。理を立てず、我を通し、相手の言い分に耳を貸そうとしないで腹を立てるような心。

よく
人より多く身につけたい、取れるだけ取りたいという心。数量をごまかし、人を欺して利をかすめ、あるいは盗み、取り込むなど、何によらず人の物をただわが身につけるのは強欲。また、色情に溺れるのは色欲。

こうまん
力もないのに自惚れ、威張り、富や地位をかさに着て人を見下し、踏みつけにする。また、頭の良いのを鼻にかけて人を侮り、人の欠点を探す、あるいは知らないことを知ったふりをするような心。

この八つのほこり以外にも、「うそ」と「ついしょ」は嫌いだと教えられています。

ちなみに教祖 中山みきは牛や馬は食べなかったそう。

教祖 中山みきは牛や馬は食べなかったそうです。
天理教の原点の一つ、「おふでさき」 には以下のお歌があります。

いまゝでハぎうばとゆうハまゝあれど 
あとさきしれた事ハあるまい      

おふでさき五号 1

たんへとをんかかさなりそのゆへハ 
きゆばとみへるみちがあるから     

おふでさき 八号 54

また、『正文遺韻抄』(諸井政一著)の「動物の進歩に就て」にも以下の記述があります。

「生物は、みな人間に食べられて、おいしいなあといふて、喜んでもらふで、生れ変わるたび毎に、人間の方へ近うなるのやで。さうやからして、どんなものでも、おいしいへと云うて、たべてやらにやならん。なれども、牛馬といふたら、是れはたべるものやないで、人間からおちた、心のけがれたものやでなあ」と、御聞かせ被下しといふ。

正文遺韻抄 155ページ

「おふでさき」と『正文遺韻抄』の両者とも、報恩感謝の道を忘れ、恩に恩を重ねると、最後には牛馬に等しい道(“ 畜生の世界 ”)に堕ちるほかはないと諭しているように受け取れます。

ここでいう「牛馬に堕ちる」とは、人間のための使役用家畜である牛馬に生まれ変わることを意味し、他人の指示・命令のままに力仕事をしなければならない不自由な生活を余儀なくされることを意味しているのだと思います。

ただ、ここでたとえられる「牛」は使役用家畜であって、食用のウシを指してはいないと思われます。

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