明治二十二年六月二十九日(陰暦六月二日)
冨森竹松兄幸七身の障り伺明治二十二年八月三日
上原佐吉七十四才(備中真明組講元)明治二十二年八月二十一日(陰暦七月二十五日)
井久保栄治郎五十三才(此瀬)明治二十二年十一月七日
寺田半兵衞商業の事に付願明治二十二年
植田長三郎四十五才三十日前より右目痛むに付伺(十市郡下村講元)明治二十二年頃
天野善七伺明治二十二年一月十五日 午前九時二十分
大阪真明組分教会設置の伺明治二十二年一月二十四日(陰暦十二月二十三日)午前九時
飯降さと身上障りに付伺明治二十二年二月八日(陰暦正月九日)午後十時三十分
神戸分教会長につき増野に勤めて貰い度き由を講元周旋一同より申入に付、御許し下さるや、いかゞのものでありますや、増野正兵衞身上より伺明治二十二年二月二十一日 午後一時二十分
本席身上御障りに付願明治二十二年三月二十一日(陰暦二月二十日)
三月十日の取扱上のおさしづに続いて、日々取扱上の事に付おさしづ明治二十二年三月三十一日(陰暦三月朔日)午前九時三十分
郡山分教会所に御神楽御道具を御許しの願明治二十二年四月二十三日
山沢為造身の障りに付願明治二十二年五月十二日(陰暦四月十三日)午後六時
梶本宗太郎身上障りに付願明治二十二年六月一日(陰暦五月三日)
松村吉太郎兵神分教会開講式に付出張の暇願明治二十二年六月三十日(陰暦六月三日)
梶本内芳松の事情に付伺明治二十二年七月九日
高井猶吉身上障り伺明治二十二年七月二十四日(陰暦六月二十七日)
高安分教会設置再願の時機に相成り居るや、又は未だ来らざるや、若し未だ来らずば、既に材木伐採これある故、普請の儀御許可相成度伺明治二十二年八月七日(陰暦七月十一日)午前八時
増野正兵衞裏向悪しく、左耳鳴り、右鼻瘡頭しんの伺明治二十二年八月二十六日(陰暦八月一日)
兵神分教会所講社の人多く泊める事伺明治二十二年九月二十二日(陰暦八月二十八日)
船場分教会所普請落成に付、陰暦九月八日、九日(陽暦十月二日、三日)に落成式致度御許し願明治二十二年十月二十二日(陰暦九月二十八日)午後十一時
山本しげの身上の障り伺明治二十二年十一月一日(陰暦十月九日)
増井りん身上障り願明治二十二年十一月十一日
石西三五郎宅跡へ板柵して宜しきや、壁にして宜しきや願明治二十二年十二月八日
増野正兵衞内々一統協議の上、おぢばへ引越しますに付、村田長平向の家か、三番地の足達源四郎離座敷借り受けるか、いづれ宜しきや願明治二十二年十二月二十八日
おさづけの処、詰合替わり/\して運びますものか、この儀願明治二十二年二月四日
平野甚太郎二十八才(阿波国板野郡矢上村周旋方)明治二十二年四月五日(陰暦三月六日)
柏木六左衞門四十八才十日前より目九分悪い井戸濁るに付伺(斯道会第三十八号周旋方)明治二十二年六月
阪倉佐助長女のぶ身上願明治二十二年八月六日 午後五時
深谷源次郎伜徳次郎身上悩み伺明治二十二年八月二十二日
谷川清三郎三十六才身上願(芦津)明治二十二年十一月十一日
福西喜代松二十四才(大和国吉野郡瓦屋村周旋方)明治二十二年
大江正之助五十五才身上願明治二十二年頃
増田伺明治二十二年一月十五日(陰暦十二月十四日)
大阪明心組より分教会所御許し願明治二十二年一月二十四日(陰暦十二月二十三日)午後十時
山本利三郎の地所内へ、詰員十三名の家を一手一つに建てるに付伺明治二十二年二月八日(陰暦正月九日)
増野正兵衞鼻血朝七八度出で、且左足のくさの障りに付伺明治二十二年二月二十一日(陰暦正月二十二日)午後十一時三十分
刻限御話明治二十二年三月二十一日 午後五時
本席身上御障りに付願明治二十二年三月三十一日(陰暦三月朔日)
兵神分教会所前同様御神楽道具願明治二十二年四月二十四日(陰暦三月二十五日)
遠州山名郡分教会所に於て、御神楽面を開筵式に付御許し伺明治二十二年五月十六日(陰暦四月十七日)
清水与之助五日前より腹少々痛み、しぼります、又家内清水はる同日胸先つかえるに付願明治二十二年六月一日
徳島県海部郡日和佐村大字奥河内百七番屋敷、西河実三郎三十六才おさづけさしづ明治二十二年六月
郡山分教会開講式陰暦六月六日七日の願明治二十二年七月九日
飯降さと身上伺明治二十二年七月二十五日(陰暦六月二十八日)
増野いと三十三才後月より月のもの止まり、小人でありますか、ほこりでありますか伺明治二十二年八月九日(陰暦七月十三日)午後八時
本席身上御障りに付願明治二十二年八月二十六日(陰暦八月一日)
辻忠作娘とめぎく願明治二十二年九月二十三日(陰暦八月二十九日)午前四時
刻限御話明治二十二年十月二十三日
梅谷四郎兵衞身上願