明治二十二年十月七日(陰暦九月十三日)午後九時半
本席身上の障りに付願明治二十二年十月二十八日(陰暦十月五日)
前伺中山会長御名前に登記御許し願明治二十二年十一月七日
梅谷四郎兵衞長女たか十才、左の目の上に一つの出来もの、とみゑ三才、右の耳及おとがいに、くさ出来しに付願明治二十二年十一月二十七日
山沢サヨの障りに付伺明治二十二年十二月二十日
増野正兵衞借家も普請中に付、その出来るまで引越御許し願、それとも急に引越す方宜しきや、月を越えても宜しきや伺明治二十二年一月十一日
前川たけ五十二才伺明治二十二年三月五日(陰暦二月四日)
岩佐甚五郎二十七才(阿波国板野郡東貞方村講元)明治二十二年五月二十七日(陰暦四月二十八日)九時
麻植房次郎伜晴介身上願明治二十二年七月十七日
岡本久太郎小人太助十一才身上障りに付願明治二十二年八月十三日 朝九時
内藤善次四十七才身上願(元斯道会第七号周旋方)明治二十二年九月十九日(陰暦八月二十五日)
堀内与蔵子供菊松伺(檪枝)明治二十二年十二月十四日
黄瀬二郎左衞門二十五才(斯道会八十号江州甲賀郡宮町)明治二十二年
増田甚七二十七才伺明治二十二年十月二十一日(陰暦九月二十七日)
清水与之助播州地方へ派出の願明治二十二年一月二十日
増野正兵衞目かい足のくさ障り伺明治二十二年二月四日(陰暦正月五日)
梶本国治郎障りに付願明治二十二年二月十七日(陰暦正月十八日)
兵神分教会所地所の処はさしづせんと御聞せ下されし処、増野正兵衞より講社一同談示の上、神戸下山手通六丁目三十八番地村上五郎兵衞地所に致し度くと、皆心を揃えて定めしも、人間心を以ては相分り申さゞる故一応清水与之助よりの伺明治二十二年三月十日(陰暦二月九日)
本席へ身上取次さしづ間違出来て取次へのおさしづ(遠州弘岡村真明組周旋人の身上の願なるに御授人として取次せし故なり)明治二十二年三月二十八日
平野楢蔵の願明治二十二年四月十八日 午後十時
刻限御話明治二十二年五月七日(陰暦四月八日)
梶本松治郎二女ミチ夜泣き障りに付伺明治二十二年五月二十七日(陰暦四月二十八日)
兵神分教会所開講式に付、御出張御許し下さるよう前以て願明治二十二年六月十七日
前川菊太郎西京河原町分教会出願のため出張御許しの願明治二十二年七月七日(陰暦六月十日)
増野正兵衞咽喉塞ぐようなるに付願明治二十二年七月二十一日(陰暦六月二十四日)
増田きぬゑ身上障り願(増田つねおさづけおさしづ)明治二十二年七月三十一日(陰暦七月四日)午前六時十七分
本席身上御障りに付願明治二十二年八月二十一日(陰暦七月二十五日)
中山会長始め、梶本松治郎、山沢為造、ひさ、うの、身上の理から皆引寄せて御話あり明治二十二年九月十六日(陰暦八月二十二日)夜十時二十分
本席身上御障りに付願明治二十二年十月九日(陰暦九月十五日)午前一時四十分
高井猶吉身の障りよりの刻限御話明治二十二年十月二十九日
増野松輔身上全体腫れしびれ、去る十四日身上障りあり、一時御陰蒙り、主人の方へ帰し、又同方にて障りに付、主人方より取戻せとの事に付、その儘にして置きまして宜しきや伺明治二十二年十一月七日(陰暦十月十五日)
鴻田忠三郎歯痛み願明治二十二年十一月二十九日
東京市下谷に在る出張所を下谷分教会と引直しに付、前川菊太郎派出の際伺いさしづ明治二十二年十二月二十日(陰暦十一月二十八日)
村田かじ三十三才身上願明治二十二年一月十九日
八尾新八四十四才事情伺(名張部内)明治二十二年三月十二日 午前八時三十分
筒井善三郎三十五才(元斯道会第三十八号周旋方江州甲賀郡北脇村)明治二十二年六月三日
宮田善蔵伜善一五才身上に付願明治二十二年七月二十五日
深谷徳次郎伺明治二十二年八月十七日(陰暦七月二十一日)
深谷源次郎身の障り伺明治二十二年九月二十一日 午前八時三十分
植谷浅次郎身上願明治二十二年十二月十七日
増田伺明治二十二年
山本与平及び次男身上願(本月七日より十日烈しく最早八日頃より何願うか/\、次男腹痛に付)明治二十二年一月七日 午前十一時
園原上田嘉治郎の伺(ナライトの父)明治二十二年一月二十一日(陰暦十二月二十日)
清水与之助目かい障り伺明治二十二年二月四日(陰暦正月五日)
清水与之助身上障り伺明治二十二年二月十八日(陰暦正月十九日)
斯道会の分教会の件に付おさしづ(河原町分教会)明治二十二年三月十日
松村吉太郎三月六日のおさしづに『生涯の理も諭そ』との事に付伺明治二十二年三月二十八日
平野楢蔵願明治二十二年四月二十日
平野楢蔵願明治二十二年五月七日(陰暦四月八日)
おさづけに付、本席へ一座三名との御定め、然るに遠国より同連五名ありますに付、二座御願申す事御許し願明治二十二年五月二十七日(陰暦四月二十八日)
清水与之助身上障り伺