121.いとに着物を 121.いとに着物を 明治十六年六月初(陰暦四月末)、山田伊八郎、とその妻こいそは、長女いくゑを連れて、いくゑ誕生満一年のお礼詣りに、お屋敷へ帰らせて頂いた。すると、教祖は、大層お喜び下され、この時、 「いとに着物をして上げておくれ。」と、仰せられ、赤衣を一着賜わった。 これを頂いてかえって、こいそは、六月の末(陰暦五月下旬) 2018.08.15
122.理さえあるならば 122.理さえあるならば 明治十六年夏、大和一帯は大旱魃であった。桝井伊三郎は、未だ伊豆七条村で百姓をしていたが、連日お屋敷へ詰めて、百姓仕事のお手伝いをしていた。すると、家から使いが来て、「村では、田の水かいで忙しいことや。村中一人残らず出ているのに、伊三郎さんは、一寸も見えん、と言うて喧しいことや。一寸かえって来て、顔を見せても 2018.08.15
123.人がめどか 123.人がめどか 教祖は、 入信後間もない梅谷四郎兵衛に、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」と、お諭し下された。生来、四郎兵衛は気の短い方であった。明治16年、折りから普請中の御休息所の壁塗りひのきしんをさせて頂いていたが、「大阪の食い詰め左官が、大和三界まで仕事に来て。」との陰口を聞いて、 2018.08.15
124.鉋屑の紐 124.鉋屑の紐 明治十六年、御休息所普請中のこと。梶本ひさは、夜々に教祖から裁縫を教えて頂いていた。 ある夜、一寸角程の小布を縫い合わせて、袋を作ることをお教え頂いて、袋が出来たが、さて、この袋に通す紐がない。「どうしようか。」と思っていると、教祖は、 「おひさや、あの鉋屑を取っておいで。」と、仰せられたので、その鉋屑を拾うて来 2018.08.15
125.先が見えんのや 125.先が見えんのや 中山コヨシが、夫重吉のお人好しを頼りなく思い、生家へかえろうと決心した途端、目が見えなくなった。 それで、飯降おさとを通して伺うてもらうと、教祖は、 「コヨシはなあ、先が見えんのや。そこを、よう諭してやっておくれ。」と、お言葉を下された。 これを承って、コヨシは、申し訳なさに、泣けるだけ泣いてお詫びした途 2018.08.15
126.講社のめどに 126.講社のめどに 明治十六年十一月(陰暦十月)御休息所が落成し、教祖は、十一月二十五日(陰暦十月二十六日)の真夜中にお移り下されたので、梅谷四郎兵衞は、道具も片付け、明日は大阪へかえろうと思って、二十六日夜、小二階で床についた。すると、仲田儀三郎が、緋縮緬の半襦袢を三宝に載せて、「この間中は御苦労であった。教祖は、『これを、明心 2018.08.15
127.東京々々、長崎 127.東京々々、長崎 明治十六年秋、上原佐助は、おぢばへ帰って、教祖にお目通りさせて頂いた。この時はからずも、教祖から、 「東京々々、長崎。」というお言葉を頂き、赤衣を頂戴した。 この感激から、深く決意するところがあって、後日、佐助は家をたたんで、単身、赤衣を奉戴して、東京布教に出発したのである。 2018.08.15
128.教祖のお居間 128.教祖のお居間 教祖は、明治十六年までは、中南の門屋の西側、即ち向かって左の十畳のお部屋に、御起居なさっていた。そのお部屋には、窓の所に、三畳程の台が置いてあって、その上に坐っておられたのである。その台は、二尺五寸程の高さで、その下は物入れになっていた。子供連れでお伺いすると、よく、そこからお菓子などを出して、子供に下された。 2018.08.15
129.花疥癬のおたすけ 129.花疥癬のおたすけ 明治16年、今川聖次郎の長女ヤス9才の時、疥癬にかかり、しかも花疥癬と言うて膿をもつものであった。親に連れられておぢばへ帰り、教祖の御前に出さして頂いたら、「こっちへおいで。」と、仰った。恐る恐る御前に進むと、「もっとこっち、もっとこっち。」と仰るのでとうとうお膝元まで進まして頂いたら、お口でご自分のお手を 2018.08.15
130.小さな埃は 130.小さな埃は 明治十六年頃のこと。教祖からご命を頂いて、当時二十代の高井直吉は、お屋敷から南三里ほどの所へ、お助けに出させていただいた。身上患いについてお諭しをしていると、先方は「わしはな、未だかって悪いことをした覚えはないのや。」と剣もほろろに喰ってかかってきた。高井は、「私は未だそのことについて教祖に何も聞かせた頂いており 2018.08.15