122.理さえあるならば
明治十六年夏、大和一帯は大旱魃であった。桝井伊三郎は、未だ伊豆七条村で百姓をしていたが、連日お屋敷へ詰めて、百姓仕事のお手伝いをしていた。すると、家から使いが来て、「村では、田の水かいで忙しいことや。村中一人残らず出ているのに、伊三郎さんは、一寸も見えん、と言うて喧しいことや。一寸かえって来て、顔を見せてもらいたい。」と言うて、呼びに来た。伊三郎は、かねてから、「我が田は、どうなっても構わん。」と覚悟していたので、「せっかくやが、かえられん。」と、アッサリ返事して、使いの者をかえした。が、その後で、思案した。「この大旱魃に、お屋敷へたとい一杯の水でも入れさせてもらえば、こんな結構なことはない、と、自分は満足している。しかし、そのために、隣近所の者に不足さしていては、申し訳ない。」と。そこで、「ああ言うて返事はしたが、一度顔を見せて来よう。」と思い定め、教祖の御前へ御挨拶のために参上した。すると、教祖は、「上から雨が降らいでも、理さえあるならば、下からでも水気を上げてやろう。」と、お言葉を下された。こうして、村へもどってみると、村中は、野井戸の水かいで、昼夜兼行の大騒動である。伊三郎は、女房のおさめと共に田へ出て、夜おそくまで水かいをした。しかし、その水は、一滴も我が田へは入れず、人様の田ばかりへ入れた。そしておさめは、かんろだいの近くの水溜まりから、水を頂いて、それに我が家の水をまぜて、朝夕一度ずつ、日に二度、藁しべで我が田の周囲へ置いて廻わった。こうして数日後、夜の明け切らぬうちに、おさめが、我が田は、どうなっているかと、見廻わりに行くと、不思議なことには、水一杯入れた覚えのない我が田一面に、地中から水気が浮き上がっていた。おさめは、改めて、教祖のお言葉を思い出し、成る程仰せ通り間違いはない、と、深く心に感銘した。その年の秋は、村中は不作であったのに、桝井の家では、段に一石六斗という収穫をお与え頂いたのである。