教祖殿逸話篇

191.よう、はるばる

191.よう、はるばる 但馬国田ノ口村の田川寅吉は、明治十九年五月五日、村内二十六戸の人々と共に講を結び、推されてその講元となった。時に十七才であった。これが、天地組七番(註、後に九番と改む)の初まりである。 明治十九年八月二十九日、田川講元外八名は、おぢば帰りのため村を出発、九月一日大阪に着いた。が、その夜、田川は宿舎で、激しい

192.トンビト-ト

192.トンビト-ト 明治十九年頃、梶本宗太郎が、七つ頃の話。教祖が、蜜柑を下さった。蜜柑の一袋の筋を取って、背中の方から指を入れて、 「トンビト-ト、カラスカ-カ-。」と、仰っしゃって、 「指を出しや。」と、仰せられ、指を出すと、その上へ載せて下さる。それを、喜んで頂いた。 又、蜜柑の袋をもろうて、こっちも真似して、指にさし

193.早よう一人で

193.早よう一人で これは、梶本宗太郎の思い出話である。  教祖にお菓子を頂いて、神殿の方へでも行って、子供同志遊びながら食べて、なくなったら、又、教祖の所へ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしもうて、なくなると、又、走って行く。どうで、「お祖母ちゃん、又おくれ。」とでも言うたのであろう。三遍も四遍も行ったように思う。 そ

194.お召し上がり物

194.お召し上がり物 教祖は、高齢になられてから、時々、生の薩摩藷を、ワサビ下ろしですったものを召し上がった。 又、味醂も、小さい盃で、時々召し上がった。殊に、前栽の松本のものがお気に入りで、瓢箪を持って買いに行っては、差し上げた、という。 又、芋御飯、豆御飯、乾瓢御飯、松茸御飯、南瓜御飯というような、色御飯がお好きであった。そ

195.御苦労さま

195.御苦労さま 「教祖程、へだてのない、お慈悲の深い方はなかった。どんな人にお会いなされても、少しもへだて心がない。どんな人がお屋敷へ来ても、可愛い我が子供と思うておいでになる。どんな偉い人が来ても、 『御苦労さま。』 物もらいが来ても、 『御苦労さま。』その御態度なり言葉使いが、少しも変わらない。皆、可愛い我が子と思うておい

196.子供の成人

196.子供の成人 教祖の仰せに、「分からん子供が分からんのやない。親の教えが届かんのや。親の教えが隅々まで届いたなら、子供の成人が分かるであろう。」と繰り返し繰り返し、聞かせて下された。お陰によって、分からん人も分かり、助からん人も助かり、難儀する人も難儀せぬようの道をおつけ下されたのである。       

197.働く手は

197.働く手は 教祖がいつもお聞かせ下されたお話に、「世界中互いに助け合いするなら、末の案じも危なきもない。仕事はなんぼでもあるけれどもその仕事をする手がない家もあれば、仕事をする手はなんぼでもあるが、する仕事がない家もある。奉公すればこれは親方のものと思わず、陰日向なく自分のことと思うてするのやで。秋にでも、今日は鬱陶しいと思う

198.どんな花でもな

198.どんな花でもな ある時、清水与之助、梅谷四郎兵衞、平野トラの三名が、教祖の御前に集まって、各自の講社が思うようにいかぬことを語り合うていると、教祖は、 「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで。」と、お聞かせ下されて、お慰め下された、という。

199.一つやで

199.一つやで 兵神真明講周旋方の本田せいは、明治十五年、二度目のおぢば帰りをした。その時、持病の脹満で、又、お腹が大きくなりかけていた。それをごらんになった教祖は、 「おせいさん、おせいさん、あんた、そのお腹かかえているのは、辛かろうな。けど、この世のほこりやないで。前々生から負うてるで。神様が、きっと救けて下さるで。心変え

200.大切にするのやで

200.大切にするのやで 明治二十年一月十一日、紺谷久平は、信者一同が真心をこめて調製した、赤い衣服一枚と、赤の大きな座布団二枚を、同行の者と共に背負うて、家を出発し、おぢばに帰らせて頂き、村田幸右衞門宅で宿泊の上、山本利三郎の付添いで、同一月十三日、教祖にお目通りした。教祖は、御休息所の上段の間で寝んで居られ、長女おまさが、お側