1.玉に分銅 1.玉に分銅 教祖は、綿木の実から綿を集める時は、手に布を巻いてチュッチュッとお引きになったが、大層早かった。又、その綿から糸を紡ぎ機を織るのが、とてもお上手であった。 糸を括って紺屋へ持って行き、染めてから織ると模様が出るのであるが、中でも最も得意とされたのは、玉に分銅、猫に小判などという手の込んだ模様ものであった、という。 2018.08.15
2.お言葉のある毎に 2.お言葉のある毎に 天保九年十月の立教の時、当時十四才と八才であったおまさ、おきみ(註、後のおはる)の二人は、後日この時の様子を述懐して、「私達は、お言葉のある毎に、余りの怖さに、頭から布団をかぶり、互いに抱き付いてふるえていました。」 と述べている。 2018.08.15
3.内蔵 3.内蔵 教祖は、天保九年十月二十六日、月日のやしろとお定まり下されて後、親神様の思召しのまにまに内蔵にこもられる日が多かったが、この年、秀司の足、またまた激しく痛み、戸板に乗って動作する程になった時、御みずからその足に息をかけ紙を貼って置かれたところ、十日程で平癒した。 内蔵にこもられる事は、その後もなお続き、およそ三年間 2018.08.15
5.流れる水も同じこと 5.流れる水も同じこと 教祖が、梅谷四郎兵衞にお聞かせ下されたお言葉に、「私は、夢中になっていましたら、『流れる水も同じこと、低い所へ落ち込め、 落ち込め。表門構え玄関造りでは救けられん。貧乏せ、貧乏せ。』と、仰っしゃりました。」と。 2018.08.15
6.心を見て 6.心を見て 嘉永5年、豊田村の辻忠作の姉おこよが、お屋敷へ通うて、教祖からお針を教えて頂いていた頃のこと。教祖の三女おきみの人にすぐれた人柄を見込んで、櫟本の梶本惣治郎の母が、 辻家の出であったので、梶本の家へ話したところ、話が進み、辻忠作を仲人として、縁談を申し込んだ。教祖は、「惣治郎ならば、見合いも何もなくとも、心の美しいのを 2018.08.15
7.真心の御供 7.真心の御供 中山家が谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮れに、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下さい。」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖のお目にかけた。すると、教祖は、いつになく、「ああ、そうかえ。」と仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。それから2、3日して 2018.08.15
8.一寸身上に 8.一寸身上に 文久元年、西田コトは、五月六日の日に、歯が痛いので、千束の稲荷さんへ詣ろうと思って家を出た。千束なら、斜に北へ行かねばならぬのに、何気なく東の方へ行くと、別所の奥田という家へ嫁入っている同年輩の人に、道路上でパッタリと出会った。そこで、「どこへ行きなさる。」という話から、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けて 2018.08.15
9.ふた親の心次第に 9.ふた親の心次第に 文久三年七月の中頃、辻忠作の長男由松は、当年四才であったが、顔が青くなり、もう難しいという程になったので、忠作の母おりうが背負うて参拝したところ、教祖は、 「親と代わりて来い。」と、仰せられた。それで、妻ますが、背負うて参拝したところ、 「ふた親の心次第に救けてやろう。」と、お諭し頂き、四、五日程で、すっき 2018.08.15
10.えらい遠廻わりをして 10.えらい遠廻わりをして 文久三年、桝井キク三十九才の時のことである。夫の伊三郎が、ふとした風邪から喘息になり、それがなかなか治らない。キクは、それまでから、神信心の好きな方であったから、近くはもとより、二里三里の所にある詣り所、願い所で、足を運ばない所は、ほとんどないくらいであった。けれども、どうしても治らない。その時、隣家の 2018.08.15