明治二十年七月二十日(陰暦五月三十日)
増野正兵衞身上障り伺明治二十年九月十七日(陰暦八月朔日)
増野いと居所障り強く俄かに伺明治二十年十一月十三日(陰暦九月二十八日)
桝井りんおさづけさしづ明治二十年十二月十六日(陰暦十一月二日)朝
山田伊八郎伺明治二十年四月三日
檪の本にて大国屋へ清水梅谷両人おたすけの願明治二十年十月十五日
岩田ヒサ伺(郡山大工町)明治二十年十一月十八日(陰暦十月四日)
宇野善助五十二才願明治二十年十二月六日
宇野善助五十二才小人身上願明治二十年十二月三十日 午前九時
村田忠三郎明治二十年
佃巳之吉三十一才身上願明治二十年
山本吉松二十才願明治二十年二月十八日(陰暦正月二十六日)早朝
二十六日のおつとめに就きて御願明治二十年三月十六日(陰暦二月二十二日)午後八時
刻限御話明治二十年三月二十二日(陰暦二月二十八日)二時
刻限御話明治二十年三月二十七八日(陰暦三月三四日)頃
増野正兵衞身上障りに付伺明治二十年五月十六日(陰暦四月二十四日)
梅谷四郎兵衞おさづけ頂く明治二十年陰暦五月 午前八時
梅谷たね歯痛の願明治二十年九月十八日(陰暦八月二日)
増野正兵衞神戸へ帰る時身上障り伺明治二十年十一月十三日
梅谷秀太郎身上願明治二十年十二月十九日(陰暦十一月五日)
増野正兵衞咽喉腫れ食事通り兼ね咳出るに付伺明治二十年四月
山瀬文次郎伺明治二十年十月二十三日
大浦伝七長男武治郎六才八月十七日よりの腹痛治まらずに付おさしづ願明治二十年十一月十九日
深谷悦次郎三十五才願明治二十年十二月六日
宇野善助娘こん十八才願明治二十年
明石関助身上願明治二十年
西井徳重五十四才身上願明治二十年頃
中井宗助妻千代十七才去年目にほし入り伺(神戸市下山手通六丁目七十六番)明治二十年二月十八日(陰暦正月二十六日)午後
明治二十年一月九日(陰暦十二月十六日)より教祖身上一寸御障りつき、御やすみになり、同一月十八日(陰暦十二月二十五日)の夜よりおかぐらづとめ並びに十二下り始まり、二月十七日(陰暦正月二十五日)夜まで、毎夜おつとめあり、又二月十八日(陰暦正月二十六日)正午十二時より教祖の御身上迫りしに付、それよりかんろだいにておかぐらおつとめ、あとへ十二下りのてをどりあり。その時真之亮より詰合いの人々へ、だん/\御談示の上「おつとめの時、もし警察より如何なる干渉ありても、命捨てゝもという心の者のみおつとめせよ」と仰せあり。それより皆々心を十分定め、その用意して、おつとめに掛かりたる者、地方 泉田藤吉、平野楢蔵、神楽 真之亮、前川菊太郎、飯降政甚、山本利三郎、高井猶吉、桝井伊三郎、辻忠作、鴻田忠三郎、上田いそ、岡田与之助(宮森与三郎)、お手振り 清水与之助、山本利三郎、高井猶吉、桝井伊三郎、辻忠作、岡田与之助、鳴物 中山たまへ(琴)、飯降よしゑ(永尾)(三味線)、橋本清(つゞみ)の人々なり。家事取締の任に当りたる者、梅谷四郎兵衞、増野正兵衞、梶本松治郎にて、以上総人数十九人なり。おつとめは午後一時より始まり、二時に終る。右おつとめの終ると共に、教祖息を遊ばされずなる。それより内蔵の二階の中にて、飯降伊蔵により御伺あり。明治二十年三月十六日 午後十一時
刻限御話明治二十年三月二十二日(陰暦二月二十八日)夜三時
刻限御話明治二十年四月六日(陰暦三月十三日)
増野いと身上伺明治二十年五月十六日(陰暦四月二十四日)
増野正兵衞身上障り伺明治二十年七月二十三日(陰暦六月三日)
増野正兵衞体内あちらこちら疼くに付伺明治二十年九月三十日(陰暦八月十四日)
増野正兵衞口中の伺明治二十年十一月十七日(陰暦十月三日)
増野正兵衞咳障り伺明治二十年十二月二十一日 午前十時半
池田村講元植田平一郎おさづけ明治二十年五月十七日(陰暦四月二十五日)
松尾芳松身上願明治二十年十月二十四日 午前八時
紙谷安治郎身上、足底豆の時の伺明治二十年十一月二十日(陰暦十月六日)
山田伊八郎身上願(右の足の付け根障りに付伺)明治二十年十二月六日
山出庄五郎脳の痛みに付き引き続き御話(真心組大代村講元)明治二十年
秋岡亀治郎妻とめ四十二才病気身上願明治二十年
西田長三郎妻四十一才身上願(夜前八時頃よりけにて胸苦し。式上郡駒村)明治二十年二月十九日(陰暦正月二十七日)
願明治二十年三月十七日(陰暦二月二十三日)午後三時
刻限御話明治二十年三月二十二日 夜四時頃
刻限御話明治二十年四月六日(陰暦三月十三日)
増野正兵衞身上障り伺明治二十年五月二十日(陰暦四月二十八日)頃
増野正兵衞伺明治二十年七月二十六日(陰暦六月六日)
増野正兵衞身上障り伺明治二十年九月
梅谷四郎兵衞身上願明治二十年十一月十八日(陰暦十月四日)
増野正兵衞咳伺