教祖殿逸話篇

81.さあお上がり

81.さあお上がり 上原佐助は、伯父佐吉夫婦、妹イシと共に、明治十四年五月十四日(陰暦四月十七日)おぢば帰りをして、幸いにも教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、大層お喜び下され、筍と小芋と牛蒡のお煮しめを、御手ずから小皿に盛り分けて下され、更に、月日に雲を描いたお盃に、お神酒を注いで下され、 「さあ、お上がり。」と、おすすめ下さ

82.ヨイショ

82.ヨイショ 明治十四年、おぢばの東、滝本の村から、かんろだいの石出しが行われた。この石出しは、山から山の麓までは、真明組の井筒梅治郎、山の麓からお屋敷までは、明心組の梅谷四郎兵衞が、御命を頂いていたというが、その時、ちょうど、お屋敷に滞在中の兵庫真明組の上田藤吉以下十数名の一行は、布留からお屋敷までの石引きに参加させて頂いた。

83.長々の間

83.長々の間 宮森与三郎が、お屋敷の田圃で農作業の最中、教祖から急にお呼び出しがあった。急の事であったので、「何事かしら、」 と、思いながら、野良着のまま、急いで教祖の御前に参上すると、その場で、おさづけの理をお渡し下された。その上、 「長々の間、御苦労であった。」と、結構なねぎらいのお言葉を下された。註 宮森與三郎がおさづけを

84.南半国

84.南半国 山中こいそが、倉橋村出屋鋪の、山田伊八郎へ嫁入りする時、父の忠七が、この件を教祖にお伺いすると、 「嫁入りさすのやない。南は、とんと道がついてないで、南半国道弘めに出す 。なれども、本人の心次第や。」と、お言葉があった。親は、あそこは山中だからと懸念したが、こいそは、「神様がああ仰せ下さるのやから、嫁にやらして頂き

85.子供には重荷

85.子供には重荷 明治十四年晩春のこと。ここ数年来、歯の根に蜂の巣のように穴があき、骨にとどいて、日夜泣き暮らしていた松井けい(註。当時三十一才)は、たまたま家の前を通りかかった鋳掛屋夫婦のにをいがけで、教えられた通り、茶碗に水を汲んで、 なむてんりわうのみことと唱えて、これを頂くと、忽ち痛みは鎮まり、二、三日のうちに、年来の悩

86.大きなたすけ

86.大きなたすけ 大和国永原村の岡本重治郎の長男善六と、その妻シナとの間には、7人の子供が授かったが、無事成人させて頂いたのは、長男榮太郎と末女カンの二人で、その間の5人は、あるいは夭折したり流産したりであった。明治12年に、長男榮太郎の熱病をお救け頂いて、善六夫婦の信心は、大きく成人したのであったが、同14年8月ごろになって、シ

87.人が好くから

87.人が好くから 教祖は、かねてから飯降伊蔵に、早くお屋敷へ帰るよう仰せ下されていたが、当時子供が三人ある上、将来の事を思うと、いろいろ案じられるので、なかなか踏み切れずにいた。ところが、やがて二女のマサエは眼病、一人息子の政甚は俄に口がきけなくなるというお障りを頂いたので、母親のおさとが教祖にお目にかからせて頂き、「一日も早く帰

88.危ないところを

88.危ないところを 明治十四年晩秋のこと。土佐卯之助は、北海道奥尻島での海難を救けて頂いたお礼に、船が大阪の港に錨を下ろしたその日、おぢばへ帰って来た。そして、かんろだいの前に参拝して、親神様にお礼申し上げると共に、今後の決心をお誓いした。 嬉しさの余り、お屋敷で先輩の人々に、その時の様子を詳しく話していると、その話に耳を傾けて

89.食べ残しの甘酒

89.食べ残しの甘酒 教祖にお食事を差し上げる前に、誰かがコッソリと摘まみ喰いでもして置こうものなら、いくら教祖が召し上がろうとなされても、どうしても、箸をお持ちになったお手が上がらないのであった。 明治十四年のこと。ある日、お屋敷の前へ甘酒屋がやって来た。この甘酒屋は、丹波市から、いつも昼寝起き時分にやって来るのであったが、その

90.一代より二代

90.一代より二代 明治十四年頃、山沢為造が、教祖のお側へ寄せて頂いた時のお話に、「神様はなあ、『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。』 と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もあ