教祖殿逸話篇

91.踊って去ぬのやで

91.踊って去ぬのやで 明治14年頃、岡本シナが、お屋敷へ帰らせて頂いていると、教祖が、「シナさん、一しょに風呂へ入ろうかえ。」と仰せられて、一しょにお風呂へ入れて頂いた。勿体ないやら、有り難いやら、それは、忘れられない感激であった。 その後幾日か経って、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が「ようお詣りなされたなあ。さあさあ帯を解いて、着

92.夫婦揃うて

92.夫婦揃うて 梅谷四郎兵衞が、入信して間のない頃、教祖にお目にかかると、 「夫婦揃うて信心しなされや。」と、仰せ下された。早速、妻のタネに、「この道というものは、一人だけではいかぬのだそうであるから、おまえも、ともども信心してくれねばならぬ。」 と話したところ、タネも、素直にしたごうた。そこで、先輩に教えられた通り、茶椀に水

93.八町四方

93.八町四方 ある時、教祖は、中南の門屋にあったお居間の南の窓から、竹薮や田圃ばかりの続く外の景色を眺めておられたが、ふと、側の人々に向かい、 「今に、ここら辺り一面に、家が建て詰むのやで。奈良、初瀬七里の間は家が建て続き、一里四方は宿屋で詰まる程に。屋敷の中は、八町四方と成るのやで。」と、仰せられた。註 「おさしづ」に、 小

94.ちゃんとお茶が

94.ちゃんとお茶が ある日、立花善吉は、その頃誰もがそうであったように、大阪から歩いておぢばへ帰って来た。こうして、野を越え山を越え又野を越えて、十里の道のりを歩いて、二階堂村まで来た。そこで、もう一辛抱だと思うと、おのずと元気が出て、歩きながら得意の浄瑠璃の一節を、いかにも自分で得心の行くように上手に語った。が、お屋敷が近づく

95.道の二百里も

95.道の二百里も 明治十四年の暮、当時、新潟県の農事試験場に勤めていた大和国川東村の鴻田忠三郎が、休暇をもらって帰国してみると、二、三年前から眼病を患っていた二女のりきが、いよいよ悪くなり、医薬の力を尽したが、失明は時間の問題であるという程になっていた。 家族一同心配しているうちに、年が明けて明治十五年となった。年の初めから、こ

96心の合うた者

96心の合うた者 明治十四、五年頃、教祖が、山沢為造にお聞かせ下されたお言葉に、 「神様は、いんねんの者寄せて守護して下さるねで。『寄り合うている者の、心の合うた者同志一しょになって、この屋敷で暮らすねで。』と、仰っしゃりますねで。」と。

97煙草畑

97煙草畑 ある時、教祖は、和泉国の村上幸三郎に、 「幻を見せてやろう。」と、仰せになり、お召しになっている赤衣の袖の内側が、見えるようになされた。幸三郎が、仰せ通り、袖の内側をのぞくと、そこには、我が家の煙草畑に、煙草の葉が、緑の色も濃く生き生きと茂っている姿が見えた。それで幸三郎は、お屋敷から自分の村へもどると、早速煙草畑へ行っ

98万劫末代

98万劫末代 明治十五年三月二十六日(陰暦二月八日)、飯降伊蔵が、すっかり櫟本を引き払うて、教祖の御許へ帰らせて頂いた時、教祖は、 「これから、一つの世帯、一つの家内と定めて、伏せ込んだ。万劫末代動いてはいかん、動かしてはならん。」と、お言葉を下された。

99大阪で婚礼が

99大阪で婚礼が 明治十五年三月のある日、土佐卯之助は、たすけ一条の信仰に対する養父母の猛烈な反対に苦しみ抜いた揚句、親神様のお鎮まり下さるお社を背負うて、他に何一つ持たず、妻にも知らせず、忽然として、撫養の地から姿を消し、大阪の三軒屋で布教をはじめた。 家に残して来た妻まさのことを思い出すと、堪らない寂しさを感じることもあったが

100.人を救けるのやで

100.人を救けるのやで 大和国神戸村の小西定吉は、人の倍も仕事をする程の働き者であったが、ふとした事から胸を病み、医者にも不治と宣告され、世をはかなみながら日を過ごしていた。また、妻イエも、お産の重い方であったが、その頃二人目の子を妊娠中であった。そこへ同村の森本治良平からにをいがかかった。明治15年3月頃のことである。それ