教祖殿逸話篇

41.末代にかけて

41.末代にかけて ある時、教祖は、豊田村の仲田儀三郎の宅へお越しになり、家のまわりをお歩きになり、 「しっかり踏み込め、しっかり踏み込め。末代にかけて、しっかり踏み込め。」と、口ずさみながらお歩きになって後、仲田に対して、 「この屋敷は、神が入り込み、地固めしたのや。どんなに貧乏しても、手放してはならんで。信心は、末代にかけて続け

42.人を救けたら

42.人を救けたら 明治8年4月上旬、福井県山東村菅浜の榎本栄治郎は、娘きよの気違いを救けてもらいたいと西国巡礼をして、第八番長谷観音に詣ったところ、茶店の老婆から、「庄屋敷村には、生神様がござる。」と聞き、早速、三輪を経て庄屋敷に至り、お屋敷を訪れ、取り次ぎに頼んで、教祖にお目通りした。すると、教祖は、「心配は要らん、要らん。家

43.それでよかろう

43.それでよかろう 明治八年九月二十七日(陰暦八月二十八日)、この日は、こかんの出直した日である。庄屋敷村の人々は、病中には見舞い、容態が変わったと言うては駆け付け、葬式の日は、朝早くから手伝いに駈せ参じた。 その翌日、後仕舞の膳についた一同は、こかん生前の思い出を語り、教祖のお言葉を思い、話し合ううちに、「ほんまに、わし等は、

44.雪の日

44.雪の日 明治八、九年頃、増井りんが信心しはじめて、熱心にお屋敷帰りの最中のことであった。 正月十日、その日は朝から大雪であったが、りんは河内からお屋敷へ帰らせて頂くため、大和路まで来た時、雪はいよいよ降りつのり、途中から風さえ加わる中を、ちょうど額田部の高橋の上まで出た。この橋は、当時は幅三尺程の欄干のない橋であったので、こ

45.心の皺を

45.心の皺を 教祖は、一枚の紙も、反故やからとて粗末になさらず、おひねりの紙なども、丁寧に皺を伸ばして、座布団の下に敷いて、御用にお使いなされた。お話に、「皺だらけになった紙を、そのまま置けば、落とし紙か鼻紙にするより仕様ないで。これを丁寧に皺を伸ばして置いたなら、何なりとも使われる。落とし紙や鼻紙になったら、もう一度引き上げる

46.何から何まで

46.何から何まで ある日、信者が大きな魚をお供えした。お供えがすんでから、秀司が、増井りんに、「それを料理するように。」と、言い付けた。りんは、出刃をさがしたが、どうしても見付からない。すると、秀司は、「おりんさん、出刃かいな。台所に大きな菜刀があるやろ。あれで料理しておくれ。」 と言った。出刃はなかったのである。りんは、余りの

47.先を楽しめ

47.先を楽しめ 明治九年六月十八日の夜、仲田儀三郎が、「教祖が、よくお話の中に、 『松は枯れても、案じなし。』と、仰せ下されますので、どこの松であろうかと、話し合うているのですが。」 と言ったので、増井りんは、「お祓いさんの降った松は枯れる。増井の屋敷の松に、お祓いさんが降ったから、あの松は枯れてしまう。そして、あすこの家は、もう

48.待ってた、待ってた

48.待ってた、待ってた 明治九年十一月九日(陰暦九月二十四日)午後二時頃、上田嘉治郎が、萱生の天神祭に出かけようとした時、機を織っていた娘のナライトが、突然、「布留の石上さんが、総髪のような髪をして、降りて来はる。怖い。」 と言うて泣き出した。いろいろと手当てを尽したが、何んの効能もなかったので、隣りの西浦弥平のにをいがけで信心

49.素直な心

49.素直な心 明治9年か10年頃、林芳松が5、6才の頃のことである。右手を脱臼したので、祖母に連れられてお屋敷へ帰って来た。すると、教祖は、「ぼんぼん、よう来やはったなあ。」と、仰っしゃって、入口の所に置いてあった湯呑み茶碗を指差し、「その茶碗を持って来ておくれ。」と、仰せられた。芳松は、右手が痛いから左手で持とうとすると、教祖は

50.幸助とすま

50.幸助とすま 明治十年三月のこと。桝井キクは、娘のマス(註、後の村田すま)を連れて、三日間生家のレンドに招かれ、二十日の日に帰宅したが、翌朝、マスは、激しい頭痛でなかなか起きられない。が、厳しくしつけねば、と思って叱ると、やっと起きた。が、翌二十二日になっても、未だ身体がすっきりしない。それで、マスは、お屋敷へ詣らせて頂こう、と