教祖殿逸話篇

31.天の定規

31.天の定規 教祖は、ある日飯降伊蔵に、「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみてくだされ。」と、仰せになった。伊蔵は、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を一本作った。すると、教祖は、「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され。」と、仰せられ、更に続いて、「隙がありませんか。」と、仰せられた。伊蔵が定

32.女房の口一つ

32.女房の口一つ 大和国小阪村の松田利平の娘やすは、十代の頃から数年間、教祖の炊事のお手伝いをさせて頂いた。教祖は、「おまえの炊いたものを、持って来てくれると、胸が開くような気がする。」と、言うて、喜んで下された。お食事は、粥で、その中へ、大豆を少し入れることになっていた。ひまな時には、教祖と二人だけという時もあった。そんな時、い

33.国の掛け橋

33.国の掛け橋 河内国柏原村の山本利三郎は、明治三年秋二十一才の時、村相撲を取って胸を打ち、三年間病の床に臥していた。医者にも見せ、あちらこちらで拝んでももらったが、少しもよくならない。それどころか、命旦夕に迫って来た。明治六年夏のことである。その時、同じ柏原村の「トウ」という木挽屋へ、大和の布留から働きに来ていた熊さんという木

34.月日許した

34.月日許した 明治六年春、加見兵四郎は妻つねを娶った。その後、つねが懐妊した時、兵四郎は、をびや許しを頂きにおぢばへ帰って来た。教祖は、 「このお洗米を、自分の思う程持っておかえり。」と、仰せになり、つづいて、直き直きお諭し下された。 「さあ/\それはなあ、そのお洗米を三つに分けて、うちへかえりたら、その一つ分を家内に頂かし、産

35.赤衣

35.赤衣 教祖が、初めて赤衣をお召しになったのは、明治七年十二月二十六日(陰暦十一月十八日)であった。教祖が、急に、 「赤衣を着る。」と、仰せ出されたので、その日の朝から、まつゑとこかんが、奈良へ布地を買いに出かけて、昼頃に帰って来た。それで、ちょうどその時、お屋敷へ手伝いに来ていた、西尾ナラギク(註、後の桝井おさめ)、桝井マス(

36.定めた心

36.定めた心 明治七年十二月四日(陰暦十月二十六日)朝、増井りんは、起き上がろうとすると、不思議や両眼が腫れ上がって、非常な痛みを感じた。日に日に悪化し、医者に診てもらうと、ソコヒとのことである。そこで、驚いて、医薬の手を尽したが、とうとう失明してしまった。夫になくなられてから二年後のことである。 こうして、一家の者が非歎の涙に

37.神妙に働いて下されますなあ

37.神妙に働いて下されますなあ 明治七年のこと。ある日、西尾ナラギクがお屋敷へ帰って来て、他の人々と一しょに教祖の御前に集まっていたが、やがて、人々が挨拶してかえろうとすると、教祖は、我が子こかんの名を呼んで、 「これおまえ、何か用事がないかいな。この衆等はな、皆、用事出して上げたら、かいると言うてない。何か用事あるかえ。」と、仰

38.東山から

38.東山から 明治七年頃、教祖は、よく、次のような歌を口ずさんでおられた、という。「東山からお出やる月はさんさ小車おすがよにいよさの水車でドン、ドン、ドン」節は、「高い山から」の節であった。

39.もっと結構

39.もっと結構 明治七年のこと。西浦弥平の長男楢蔵(註、当時二才)が、ジフテリアにかかり、医者も匙を投げて、もう駄目だ、と言うている時に、同村の村田幸四郎の母こよから、にをいがかかった。 お屋敷へお願いしたところ、早速、お屋敷から仲田儀三郎が、おたすけに来てくれ、ふしぎなたすけを頂いた。 弥平は、早速、楢蔵をつれてお礼詣りをし

40.ここに居いや

40.ここに居いや 明治七年、岡田与之助(註、後の宮森与三郎)十八才の時、腕の疼きが激しく、あちこちと医者を替えたが、一向に快方へ向かわず、昼も夜も夜具にもたれて苦しんでいた。それを見て、三輪へ嫁いでいた姉のワサが、「一遍、庄屋敷へやらしてもろうたら、どうや。」と、にをいをかけてくれた。 当人も、かねてから、庄屋敷の生神様のことは