教祖殿逸話篇

151.をびや許し

151.をびや許し 明治十七年秋の頃、諸井国三郎が、四人目の子供が生まれる時、をびや許しを頂きたいと、願うて出た。その時、教祖が、御手ずから御供を包んで下さろうとすると、側に居た高井直吉が、「それは、私が包ませて頂きましょう。」と言って、紙を切って折ったが、その紙は曲っていた。教祖は、高井の折るのをジッとごらんになっていたが、良いと

152.倍の力

152.倍の力 明治十七年頃は、警察の圧迫が極めて厳しく、おぢばへ帰っても、教祖にお目にかからせて頂ける者は稀であった。そこへ土佐卯之助は、二十五、六名の信者を連れて帰らせて頂いた。取次が、「阿波から詣りました。」と申し上げると、教祖は、 「遠方はるばる帰って来てくれた。」と、おねぎらい下された。続いて、 「土佐はん、こうして遠

153.お出ましの日

153.お出ましの日 明治十七年頃の話。教祖が、監獄署からお出ましの日が分かって来ると、監獄署の門前には、早くから、人が一杯になって待っている。そして、「拝んだら、いかん。」と言うて、巡査が止めに廻わっても、一寸でも教祖のお姿が見えると、パチパチと拍手を打って拝んだ。警察は、「人を以て神とするは、警察の許さぬところである。」と言うて

154.神が連れて帰るのや

154.神が連れて帰るのや 教祖の仰せに、 「巡査の来るのは、神が連れて帰るのや。警察へ行くのも、神が連れて行くのや。」 「この所に喧しく止めに来るのは、結構なる宝を土中に埋めてあるのを、掘り出しに来るようなものである。」「巡査が止めに来るのやない。神が連れて帰るのである。」と。

155.自分が助かって

155.自分が助かって 明治十七年頃のこと。大和の国海知村の森口又四郎、せきの長男鶴松、三十歳の頃の話し。背中にヨウが出来て痛みが激しく、膿んできて医者に診てもらうと「この人の寿命はこれまでやから好きなものでも食べさせてやりなされ。」と言われ、全く見放されてしまった。それで兼ねてからお詣りしていた庄屋敷へ帰って、教祖に直々お助けをし

156.縁の切れ目が

156.縁の切れ目が 松田サキは、大和国五条野村の生まれで、先に一旦縁付いたが、そこを振り切って離婚し、やがて二十三才の時再婚した。 明治十六年、三十才の時、癪持ちから入信したが、翌十七年頃のこと、右腕に腫物が出来て、ひどく腫れ上がったので、お屋敷へ帰っておたすけを願うた。 教祖にお目通りさせて頂くと、 「縁の切れ目が、命の切れ

157.ええ手やなあ

157.ええ手やなあ 教祖が、お疲れの時に、梶本ひさが、「按摩をさして頂きましょう。」と申し上げると、 「揉んでおくれ。」と、仰せられる。そこで、按摩させてもらうと、後で、ひさの手を取って、 「この手は、ええ手やなあ。」と、言うて、ひさの手を撫でて下された。 又、教祖は、よく、 「親に孝行は、銭金要らん。とかく、按摩で堪能さ

158月のものはな、花やで

158月のものはな、花やで ある時、教祖の御前に、山本利八が侍っていると、 「利八さん、外の方を見ておいで。」と、仰せになった。その頃は、警察の取締まりの厳しい時であったから、それについての仰せと思い、気を付けて、辺りを見廻わったが、誰も居ない。それで、もどって来て、「神さん、何んにも変わりはありゃしません。向こうのあの畑には、南瓜

159.神一条の屋敷

159.神一条の屋敷 梅谷四郎兵衞が、ある時、教祖のお側でいろいろお話を承っていたが、ふと、「ただ今、道頓堀に大変よい芝居がかかっていますが、」と、世間話を申し上げかけると、教祖は、その話を皆まで言わさず、 「わしは、四十一の年から今日まで、世間の話は何もしませんのや。この屋敷はな、神一条の話より外には何も要らん、と、神様が仰せに

160.柿選び

160.柿選び ちょうど、その時は、秋の柿の出盛りの旬であった。桝井おさめは、教祖の御前に出さして頂いていた。柿が盆に載って御前に出ていた。 教祖が、その盆に載せてある柿をお取りになるのに、あちらから、又こちらから、いろいろに眺めておられる。その様子を見て、おさめは、「教祖も、柿をお取りになるのに、矢張りお選びになるのやなあ。」と思