教祖殿逸話篇

141.ふしから芽が切る

141.ふしから芽が切る 明治十七年三月上旬、明誠社を退社した深谷源次郎は、宇野善助と共に、斯道会講結びのお許しを頂くために、おぢばへ帰った。夕刻に京都を出発、奈良へ着いたのは午前二時頃。未明お屋敷へ到着、山本利三郎の取扱いで、教祖にお目通りしてお許しを願った。すると、 「さあ/\尋ね出る、尋ね出る。さあ/\よく聞き分けにゃならん

142.狭いのが楽しみ

142.狭いのが楽しみ 深谷源治郎が、なんでもどうでもこの結構な教えを広めさせて頂かねば、とますます勇んであちらこちらとにをいがけにお助けにと歩かせていただいた頃の話し。当時、源治郎は、もう着物はない、炭はない、親神様のお働きを見せて頂かねば、その日食べるものもない、と言う中を心を倒しもせずに運ばしていただいていると教祖はいつも「狭

143.子供可愛い

143.子供可愛い 深谷源次郎は、一寸でも分からない事があると、直ぐ教祖にお伺いした。ある時、取次を通して伺うてもろうたところ、 「一年経ったら一年の理、二年経ったら二年の理、三年経てば親となる。親となれば、子供が可愛い。なんでもどうでも子供を可愛がってやってくれ。子供を憎むようではいかん。」と、お諭し下された。 源次郎は、こ

144.天に届く理

144.天に届く理 教祖は明治十七年三月二十四日から四月五日まで奈良監獄所へご苦労下された。その間忠三郎は獄吏から便所掃除を命ぜられた。忠三郎が掃除を終えて教祖の御前に戻ると教祖は、「鴻田はん、こんな所へ連れてきて便所のようなむさい所の掃除をさされて、あんたは、どう思うたかえ。」とお尋ね下されたので、「何をさせて頂いても神様の御用向

145.いつも住みよい所へ

145.いつも住みよい所へ 明治十七年二月のこと。増野正兵衞の妻いとは、親しい間柄の神戸三宮の小山弥左衞門の娘お蝶を訪ねたところ、お蝶から、「天理王命様は、まことに霊験のあらたかな神様である。」と聞いた。 当時いとは、三年越しソコヒを患うており、何人もの名医にかかったが、如何とも為すすべはなく、今はただ失明を待つばかり、という状態

146.御苦労さん

146.御苦労さん 明治十七年春、佐治登喜治良は、当時二十三才であったが、大阪鎮台の歩兵第九聯隊第一大隊第三中隊に入隊中、大和地方へ行軍して、奈良市今御門町の桝屋という旅館に宿営した。 この時、宿の離れに人の出入りがあり、宿の亭主から、「あのお方が、庄屋敷の生神様や。」とて、赤衣を召された教祖を指し示して教えられ、お道の話を聞かさ

147.本当の助かり

147.本当の助かり 大和の国倉橋村の山本与平の妻いさは、明治15年、不思議な助けを頂いて足腰がぶきぶきと音を立てて立ち上がり、年来の足の悩みをすっきり御守護いただいた。がその後手が少し震えて、なかなか良くならない。少しのことであったが、当人はこれを苦にしていた。それで、明治17年夏、おじばへ帰り教祖にお目にかかって、その震える手を

148.清らかな所へ

148.清らかな所へ 斯道会が発足して、明誠社へ入っていた人々も、次々と退社して、斯道会へ入る人が続出して来たので、明誠社では、深谷源次郎さえ引き戻せば、後の者はついて来ると考えて、人を派して説得しようとした。が、その者が、これから出掛けようとして、二階から下りようとしてぶっ倒れ、七転八倒の苦しみをはじめた。直ちに、医者を呼んで診断

149.卯の刻を合図に

149.卯の刻を合図に 明治十七年秋、おぢば帰りをした土佐卯之助は、門前にあった福井鶴吉の宿で泊っていた。すると、夜明け前に、誰か激しく雨戸をたたいて怒鳴っている者がある。耳を澄ますと、「阿波の土佐はん居らぬか。居るなら早よう出て来い。」と。それは山本利三郎であった。出て行くと、「土佐はん、大変な事になったで。神様が、今朝の卯の刻を

150.柿

150.柿 明治十七年十月、その頃、毎月のようにおぢば帰りをさせて頂いていた土佐卯之助は、三十三名の団参を作って、二十三日に出発、二十七日におぢばへ到着した。 一同が、教祖にお目通りさせて頂いて退出しようとした時、教祖は、 「一寸お待ち。」と、土佐をお呼び止めになった。そして、 「おひさ、柿持っておいで。」と、孫娘の梶本ひ