明治二十二年
和田平三郎明治二十二年一月十一日
西浦弥平小人三治郎八才願明治二十二年一月二十三日
増野正兵衞足のくさ目かい障り伺明治二十二年二月八日(陰暦正月九日)
おやしき門前に本席御住居所新築に付、今日より取り掛かる願明治二十二年二月二十一日(陰暦正月二十二日)午前七時
本席身上御障りに付願明治二十二年三月十七日(陰暦二月十六日)
兵神分教会の儀、世界の道速やかに御許し下され、地所の処誠に不思議のように御許し下されましたに付、中井宗七、清水与之助、増野正兵衞の三名講社一統の代りに御礼を申上げおさしづ明治二十二年三月二十八日
平野楢蔵願明治二十二年四月二十三日(陰暦三月二十四日)
増野正兵衞五日前より胸悩み、居所悪しく、南京虫にさゝれし処、おぢばへ出て宜しきに付伺明治二十二年五月九日 午前七時三十分
郡役所より大和国講長名前書出すべき旨、役場より照会に付おさしづ明治二十二年五月三十日(陰暦五月一日)
兵神分教会おさしづに、元々ぢば一つつとめ六名のおさしづの趣、周旋方一同へ談じ、一日の日開講式六名へ談示し、後々定め方に付願明治二十二年六月二十三日
井筒梅治郎身上願明治二十二年七月九日
兵神分教会所十柱の神様の左側に、教祖赤衣を別の社拵えて祀る御許し願明治二十二年七月二十四日(陰暦六月二十七日)午前一時二十分
刻限御話(桝井伊三郎、大工音吉身の障りに付願、引き続いて御聞かせあり)明治二十二年八月一日(陰暦七月五日)
近江国甲賀郡宇田村へ、京都河原町分教会所の支教会所御許し願(甲賀支教会)明治二十二年八月二十五日(陰暦七月二十九日)
本席口中左の上歯痛み頬腫上り身上御障りに付願明治二十二年九月十九日(陰暦八月二十五日)
前夜飯降さと、よしゑの事情より両名直にさんげの際御話あり明治二十二年十月十四日(陰暦九月二十日)
刻限御話明治二十二年十月三十日(陰暦十月七日)
上田ナライト身上障り願明治二十二年十一月九日(陰暦十月十七日)午後十時半
刻限御話明治二十二年十一月 頃
豊田村辻かめ伺明治二十二年十二月二十六日
兵神分教会明年一月五日頃に、節会の御祝致し度に付伺明治二十二年二月二日
村田忠三郎願明治二十二年三月二十日
峰畑為吉伺(宇陀郡見田村)明治二十二年六月二十七日
岡本やゑ二才身上願(中之庄村)明治二十二年七月二十八日
深谷源次郎下咳の悩み伺明治二十二年八月二十日
紙谷九兵衞身上伺(五十八才の時七月十日よりふら/\と致し、首よりつかえ、又、腰にて痛み、外の処速やかになると、又々足より右の足を痛み、日々の処身の処は、ぼち/\と仕事致して居ります。右の願)明治二十二年十一月二日
古沢弥兵治三十五才(近江国甲賀郡上村斯道会周旋方)明治二十二年十二月二十日(陰暦十一月二十八日)
宮森ヒサ身上願明治二十二年頃五月二十日 午後一時
天野家内願明治二十二年一月十三日(陰暦十二月十二日)
増井幾太郎妻みつえ二十九才願明治二十二年一月二十四日(陰暦十二月二十三日)午前八時五十五分
本席御障りに付願明治二十二年二月八日(陰暦正月九日)
大阪真明組分教会地所の処願(芦津分教会)明治二十二年二月二十一日 午前九時四十五分
本席身上御障りに付伺明治二十二年三月十八日(陰暦二月十七日)
松村吉太郎河内へ帰国に付御暇願明治二十二年三月二十八日
平野楢蔵家の願明治二十二年四月二十三日
増野松輔身上おたすけ御礼申上げ、主人先へ職を教えにやるのを、主人が職を知らん故、内へ置きましたものでありますや、又主人方へ其儘置いて宜しきや伺明治二十二年五月九日
松村吉太郎帰宅暇乞伺明治二十二年五月三十日(陰暦五月一日)
兵神分教会所へ清水与之助引移り願明治二十二年六月三十日
山名分教会講社先々説教所設置の願明治二十二年七月九日(陰暦六月十二日)
清水与之助身の内足共だるくに付願明治二十二年七月二十四日 午前八時三十分
永尾楢次郎口へ水わき、腹具合悪しきに付願明治二十二年八月四日(陰暦七月八日)夜十二時
刻限御話明治二十二年八月二十六日
撫養斎田村に於て支教会設置の願(撫養支教会)明治二十二年九月二十一日(陰暦八月二十七日)
清水与之助身の障り願明治二十四年三月十二日
梅谷四郎兵衞長男梅次郎十五才教祖五年祭に付本部に十四五日居る間に目の障りに付伺明治二十二年十月三十一日(陰暦十月八日)夜九時
刻限御話明治二十二年十一月十日(陰暦十月十八日)
先日東京に分教会所御許しになりしが、出張所を引払い、分教会と名称を変えては如何伺明治二十二年十二月一日
日々の席休む処の願明治二十二年十二月二十七日
村田かじ身上腹痛に付願明治二十二年二月二日 午前九時二十分
岡本久太郎妻かつ並びに娘十四才身上に付願