明治三十二年二月四日
西野トワ七十二才目の願明治三十二年十二月二十一日
関口つる身上願明治三十二年一月十八日
桝井政治郎及び桝井安太郎長崎へ布教に出て身上より事情願明治三十二年二月二十一日(陰暦正月十二日)夜
飯降政甚事情に付願(清水与之助、梅谷四郎兵衞、平野楢蔵、桝井伊三郎の四名だん/\事情運び、大工、農行、商業の三点の内、本人大工と申せし結局を教長へ申し上げ、その上本席へ御返事相成りし処、これで道が立つ、十分や。大工、農業、商法、三点の内本人大工修業すると申せしはもう満足する。この定まりた通り、たとえ三十日でも守りてくれたら、明日どうなっても構わんと申され、喜び涙にむせび下されし時、御話)明治三十二年三月二十五日
深谷源次郎目の障り願明治三十二年四月二十六日
石西三五郎の宅地話付けば買い求めても宜しきや願明治三十二年五月三十一日
高安部内大鳥支教会長抽冬鶴松家族共分教会へ引き移りの儀御許し願(先のおさしづは願通り理は許すが、人を連れて出るようとさしづなり)明治三十二年七月七日
本局へ交渉のため上京中の清水与之助、松村吉太郎の両名よりだん/\運びの末申し越されしに付教長より本部員に相談の上御願明治三十二年八月十七日
日本橋分教会長中台勘蔵の件に付増野正兵衞出張致し、その事情前集会の上教長へ申し上げ神様申し上げ如何致しまして宜しう御座りますや願明治三十二年九月十一日
撫養分教会岩朝、天満、吉成、田村家族分教会へ引き移り願(尚教会便所へ庇掛け、井戸掘り換えの願)明治三十二年十月八日
河原町部内大原支教会所役員室の内何ぼか高木という人へ当分貸す事情申し上げ願明治三十二年十月三十一日
永尾よしゑ八木部内飯倉布教所へ事情運び方有之に付出張の願明治三十二年十一月三十日
清水与之助身上願(熱、咳、動悸に付)明治三十二年十二月十四日
山沢為造小人マチ七八日以前より少々風邪の様に有之又為次三四日以前より同様にて今朝三時頃余程悪しく相成りしに付願明治三十二年三月二十二日
谷岡卯二郎身上願明治三十二年五月二十七日
清水虎次郎長男英次郎七才本月八日より身上の障り願明治三十二年九月三日
撫養部内坂出出張所新築願明治三十二年十月十八日
山瀬文次郎家内身上願明治三十二年一月十九日
田原支教会久保楢治郎二十二才と片桐村字小泉勝田源七長女マスヱ十七才と結婚願明治三十二年二月二十一日(陰暦正月十二日)夜九時半
飯降政甚より本席へ我が心の喜び申し上げし時明治三十二年三月二十五日
増井幾太郎次男幾次郎十一才を増井丑松養子に貰い受けの願明治三十二年四月二十六日
墓所本部員の葬りたる所より北の方へ登る上段なるう登り易く造り換えする願明治三十二年五月三十一日
増野正兵衞前のおさしづに曇りと仰せ下されしは如何の処でありますや伺明治三十二年七月八日
西浦三治郎と森井マスとの縁談事情願明治三十二年八月十七日
桝井伊三郎長女イマ十六才身上願明治三十二年九月十二日
平安支教会本部近くの高田邦三郎の地所へ一寸普請して信徒取り扱い度く願明治三十二年十月八日
南海分教会長山田作治郎身上願明治三十二年十一月二日 午前四時頃
刻限明治三十二年十二月一日
松村ノブ目の障りに付願明治三十二年十二月十九日
河原町分教会副会長深谷徳次郎三十才身上障りに付願明治三十二年三月二十三日
瀧口尚質長男逞象十三才身上願明治三十二年六月一日
島谷藤五郎二十七才右の足の股に出来物に付伺明治三十二年九月六日
阪本弥三郎四十九才身上障り願(池田役員)明治三十二年十月十八日
佃巳之吉女児出直しに付心得のため願明治三十二年一月二十二日
春野喜市別宅致し度きに付可否の願明治三十二年二月二十四日
城島分教会長後任事情に付願(上村吉三郎出直し以来芯無くして只今の処総整理員としてありますが、その後任定めるに付、元上村の継統に致さんならんものでありますや、又は役員の重立つ者で定めて宜しきや、役員同等の者沢山ありますが、如何に致しまして宜しきや、増野正兵衞心得まで願)明治三十二年四月五日
兵神分教会長清水与之助本部へ引き越し後、副会長富田伝次郎を以て役員一統協議御許しの願明治三十二年四月二十六日
西浦弥平五十六才身上願明治三十二年五月三十一日
前増野のおさしづよりだん/\本部役員協議の上城島分教会の事であろうとの事に付願(今分教会にては未だ会長定まらんに付、後任とすべき人はたゞ今にて三名あります。山田伊八郎は古き人なり、又加見兵四郎は講社多分あり余程道のため尽力のせる人なり、又峰畑為吉は副会長の名もあり教会に余程功ある人なり。目下取定めに心配致し居ります。この処願)明治三十二年七月十二日
中台おちよ流産後悪しく願明治三十二年八月十七日
上田民蔵小人なをえ身上願明治三十二年九月十五日
本席昨日夕方より俄かに御障りあり、先日と同じ腰痛みの御障りに付願明治三十二年十月十一日
土佐卯之助身上の願明治三十二年十一月三日
昨夜の刻限のおさしづに付、本部員一同打ち揃いの上願明治三十二年十二月六日
桝井政治郎及び小児ナヲヱ二人共身上願明治三十二年十二月二十二日
平野トラ本月十五日出直しに付、後々の治め方心得まで願明治三十二年四月一日
伊東勇吉三十七才身上願明治三十二年六月一日
教祖赤衣奉祀に付願(宇陀郡榛原町字井足高田清平より、これまで教祖御存命中頂戴せし赤衣を、この度東和支教会教祖の御社へ祀り替えの事情願)明治三十二年九月八日
森下友蔵伜両名出直し事情に付伺(兵神部内神戸出張所)明治三十二年十月二十一日
関口定松並びに妻つる身上、尚小人の処申し上げ願