明治二十七年四月三十日 午後三時
南海分教会丸焼けの旨電報にて言い来たるに付願明治二十七年五月十八日
河原町部内近愛支教会所設置願明治二十七年六月三日
神道本局管長より来翰の次第に付伺明治二十七年六月二十五日 朝
東京地震に付御滞京中の教長の伺、及び信徒見舞のため出張の願明治二十七年七月十二日
芦津部内笠岡支教会地所他の人の名にて一時買い求め置き度きに付心得のため事情願明治二十七年八月五日
中山会長本局管長へ挨拶のため箱根へ出向に付願明治二十七年八月二十八日
畑林やす身上願明治二十七年九月二十五日(陰暦八月二十六日)夜
陰暦二十七日こかん二十年御霊祭に付おかぐら舞奏の願明治二十七年十月二十六日
天皇陛下広島大本営へ天機伺いのため本部長出張の伺明治二十七年十一月二十七日
撫養部内名東支教会所教祖御霊舎及び事務所新築二間に三間又二間に四間の二階建、一間に二間の庇、六間に一間の庇御許し願明治二十七年十二月二十二日
増野正兵衞目の障りに付伺明治二十七年三月三十日
中西増蔵五十五才身上願明治二十七年六月八日
江藤すゑ願(東肥支教会)明治二十七年七月二十六日
高田文次郎身上に付願(阿波信徒徳島県名東郡上助住村)明治二十七年十月二十四日 朝
佐々木兼太郎伜平蔵十三才身上願明治二十七年一月二十一日
篠森乗人の事に付願明治二十七年二月十二日(陰暦正月七日)夜
本席御移り祝十日十一日両日の願明治二十七年三月七日
山田作治郎母身上願明治二十七年四月三十日
南海分教会所失火に付本部より山中彦七、桝井伊三郎両名出張の願明治二十七年五月十八日
城島分教会長上村吉三郎身上の願明治二十七年六月四日
山沢為造身上願明治二十七年六月二十七日
南海分教会普請に付、会計同教会会計不和来たしゝに付板倉槌三郎、一個の見舞として行きその際御諭し申し度きに付願明治二十七年七月十二日
井筒梅治郎手患い妻とよも出物にて、両人共手の患いに付願明治二十七年八月八日
村田おいゑ身上願明治二十七年八月三十日
富松たみ身上願明治二十七年九月二十六日
日本橋分教会長中台勘蔵身上の願明治二十七年十月二十六日
天機伺のため明日より教長出立、松村吉太郎、山中彦七、篠森乗人の三名御供の願明治二十七年十一月二十九日
本席長々目の障りに付伺明治二十七年十二月二十二日
平野楢蔵目の障り願明治二十七年四月五日
杉本重太郎妻かめ三十五才身上願明治二十七年六月十日
森田卯之助四十才娘小みき二才身上事情願明治二十七年七月二十七日
東保太郎小人シナ二才身上願明治二十七年十月二十五日
日野利三郎四十九才身上願明治二十七年一月二十一日
島ケ原支教会長万田万吉小人靖次郎身上願明治二十七年二月十四日(陰暦正月九日)夜
刻限明治二十七年三月十日
永尾よしゑ身上に付願(眼の障り)明治二十七年四月三十日
大江支教会長妻中西ゆき身上の願明治二十七年五月十八日
上田いそ身上願明治二十七年六月七日(陰暦五月四日)
平野トラ身上願明治二十七年六月二十七日(陰暦五月二十四日)
山沢ひさ身上熱ありのぼせに付願明治二十七年七月十二日
井筒梅治郎笠岡支教会副会長西山平四郎辞職願い出でに付、会長として治め方の心得まで願明治二十七年八月十六日(陰暦七月十六日)
日清事件人夫事情に付願(日清事件につき当本部より人夫五百人寄付の次第陸軍大臣へ願い出の処、当日義勇兵出願者に対して差し止めの大詔煥発相成りし故、福家秘書官の意見を諒し、名古屋師団へ出願の処、普通人夫としてより採用これ無きに付、一先ず帰本して本部員会議を開き、義勇人夫として採用これ無き時は一先ず見合わし、金円にて一万円献納の願)明治二十七年九月一日(陰暦八月二日)
桝井伊三郎小人孝四郎を高知分教会長島村菊太郎よりくれとの事情、喜多治郎吉より願明治二十七年九月二十六日
日本橋会長中台勘蔵出直しに付、教長御上京願明治二十七年十月二十七日
増野正兵衞身上の願明治二十七年十一月三十日 午前一時
刻限御話(政甚事情お話の前余程お苦しみあり)明治二十七年十二月二十三日
郡山部内榊原出張所は従前津支教会付属の処、中和支教会の直轄に願明治二十七年四月五日
中西荘六身上願明治二十七年六月十一日
礒田こめ十八才身上願明治二十七年八月三日
山瀬文次郎郡山へ立ち戻り、飯原久吉再び南都へ入る願