明治二十二年七月十二日
松村吉太郎帰宅の願明治二十二年七月二十六日(陰暦六月二十九日)午後九時
本席身上御障りに付願明治二十二年八月十二日(陰暦七月十六日)
松村栄治郎身上障り願明治二十二年九月三日(陰暦八月九日)
井筒梅治郎妻とよおさづけの願明治二十二年九月二十三日
増野正兵衞夫婦去る十四日より咳障りに付伺明治二十二年十月二十五日(陰暦十月二日)午後七時
刻限御話明治二十二年十一月二日(陰暦十月十日)
橋本清紀州熊野行に付願明治二十二年十一月十六日(陰暦十月二十四日)
大阪今村熊太郎ランプ商業を営みても宜しきやに付伺(明治二十一年正月よりおぢば勤めをさして頂き、半歳余りして家族を大阪より呼寄せたるに、これという収入無き処より)明治二十二年十二月九日
西京河原町分教会所月次祭並に説教日の御願(但し、月次祭は毎月陰暦二十四日、説教日は毎月四日、十四日、二十四日三回)明治二十二年十二月
梶本楢治郎他家へやって宜しきか、又家に置くべきや伺明治二十二年二月二十六日 十時三十分
山田安治郎二十六才(斯道会第三十八号講元代)明治二十二年四月二十三日(陰暦三月二十四日)朝
吉田栄助伺明治二十二年七月七日 午前八時
佐治登喜治良(元斯道会第九十五号講元滋賀県近江国甲賀郡佐山村大字嵯峨村第九十番地)明治二十二年八月七日(陰暦七月十一日)
上川孫兵衞伜米太郎十四才伺(元斯道会第十七号講元伜)明治二十二年八月二十六日
西岡善造伺(河内)明治二十二年十一月十七日(陰暦十月二十五日)
下和田長助三十四才(熊野国南牟婁郡和田村正心講周旋方)明治二十二年
北村太助五十二才目の煩いに付伺明治二十二年十月十七日(陰暦九月二十三日)
本席の事情だん/\つかえ、別席の処も日々増加するを以て、遠く所三三三の理を以て九箇月通るよう改むる御許しの願明治二十二年一月十五日 午後十一時十分
本席御障りに付再度伺明治二十二年一月二十七日(陰暦十二月二十六日)
増野正兵衞より清水与之助分教会の相談に帰るに付、私も同じ講社の事故同道にて一度帰り運び度きに付御暇を願明治二十二年二月十一日
梶本うの身の障り伺明治二十二年三月一日(陰暦正月三十日)午前九時三十分
兵神分教会地所並びに東京出願の事、清水与之助、増野正兵衞両名にて願明治二十二年三月二十四日 夜
梅谷四郎兵衞大阪へ帰る願明治二十二年四月十日
三月九日の願船場分教会の大阪府へ出願仕り、御許可下されしに付、おぢばへ橋本清を送りて神様へ御礼に参りし節に島、小西、太田の三名より今までの地所を他へ移転仕り度しとの願のおさしづ明治二十二年四月二十八日(陰暦三月二十九日)
兵神分教会新築の事に付、所々へ名をかたり行く者ある故、新聞に広告を出す伺明治二十二年五月十九日
松村吉太郎先回のおさしづにより、一手に運び、内も運びたれ共、神の御心に叶わねば成らぬから伺明治二十二年六月十日
松尾与蔵小人信太郎六才身上障り願明治二十二年七月六日(陰暦六月九日)
八木村の倉橋という者、十柱の神の画像と、教祖の画像を共に版にして、内務省の認可を得て売出すに付御道の妨げとなる故、買入れて宜しきや伺明治二十二年七月十二日(陰暦六月十五日)
増田甚七小人身の障り願明治二十二年七月二十七日
松村吉太郎口中に歯のかみたる疵出来しに付伺明治二十二年八月十三日(陰暦七月十七日)
上田嘉治郎六十才身上障りに付伺明治二十二年九月四日
松村吉太郎のぼせるに付伺明治二十二年九月二十三日
阿波国板野郡撫養斎田村に於て、撫養支教会設置の件に付願明治二十二年十月二十六日
増野正兵衞三島村足達保次郎田地三畝九歩買入れに付、御礼を申上げおさしづ明治二十二年十一月三日(陰暦十月十一日)
,さあ/\尋ねる事情尋ねにゃ分からん。尋ねれば何彼もさしづする。一時一つの事情尋ねる処、これまで事情に遅れてある。今の処は一時芯と言うて定めてない。定めたら何座のつとめに何人と言うて、人数が要る。いんねん無き事情は治めよとても治まらん。一座分かる/\。今一時勤めてくれるよう。今一時人数定まりない。いずれ人数の芯を定めにゃならん。定めても一時と言うて代わりを出さんならんという日もある。そこで多くの人数が要ると言うてある。一座にこの理を切りて、又今度のつとめと代り合うて勤めてくれるよう聞き分け。あの者がつとめ一条の芯と言うても、心の理によって芯が立たんという事情もある。古きいんねん一つ事情、そこで一つ何かの事情も治めてくれるよう。明治二十二年十一月二十日
増野正兵衞前々おさしづに『継ぐ間違うのち/\十分一日の日』と御聞かせにあづかり、就ては正兵衞三年以前に隠居致し、松輔を本人と定めましたのが、違いますかの伺明治二十二年十二月十四日(陰暦十一月二十二日)午前六時
中山会長始め、橋本清、桝井伊三郎、梅谷四郎兵衞、増野正兵衞、河原町分教会所開筵式に出張の儀御許し願明治二十二年
上原佐助願明治二十二年二月二十八日
上村治一郎三十才(京都斯道会第三十八号周旋方甲賀郡植村)明治二十二年四月二十四日
寺田城之助十日程前より咳出るに付願明治二十二年七月七日
岡本久太郎長男太助十一才身上願明治二十二年八月七日(陰暦七月十一日)
牧伝七四十二才身上願(大阪東区淡路町一丁目)明治二十二年八月二十七日 午前八時
中島安蔵(斯道会第八十三号講元)明治二十二年十一月二十日(陰暦十月二十八日)
松尾唯之助伺明治二十二年
木村寅蔵三十三才身上願明治二十二年十月十八日
増野正兵衞鼻先一寸痛み、又夢にかみそり身に打付ける事四度、誰とも分からず、追い掛け身体抱きかゝえ、脊より切られると夢醒めしに付伺明治二十二年一月十五日
増野正兵衞目かい障り伺明治二十二年一月二十九日
松村吉太郎前の二十六日のおさしづを考えるに、そのおさしづはぢばへ常詰しておぢばにて尽すべきや、又は国所に於て分教会を設けとの事なるや、両方の何れなるや伺明治二十二年二月十一日(陰暦正月十二日)
増田ならえ身上願明治二十二年三月一日(陰暦正月三十日)午後一時三十分
前伺の『なか/\遠く速やか一つ運び、一つ道』又『心と心と心にある』という理は、これは増野正兵衞生国長州へ帰りて神様の御話を伝える事でありますか、又これは悟り違いでありますか伺