明治三十三年四月二十一日
茨木基敬及び妻くに身上願(北分教会長茨木基敬四十六才昨年陰暦十二月頃より喉痛み今日になおりませず、又妻くに三十五才昨年陰暦四月の頃よりぶら/\致し当年の正月十二日頃より故郷の東京の方へ参り医師に掛かりし処、肺とも肋膜とも申し今日の処にては神経を悩みに付、とんと如何の事情掛かり居りますか)

さあ/\尋ねる事情/\、身上々々あれこれ身長らえての身上、事情どうであろう。今日の日では一つの心という。初めて一つ心というは、道より道という心はあれど、一時成らん処である。そこで、一つ心日々心を使う一つの理。身上不足なって、一つ尋ねたらこうと身上の処一寸暫くと言う。こんな事ではなあ/\と思うたら、心だけの道理である。そこで道というものゝ心だけの道理である。そこで道というものは心だけ運び、たんのう安心をさすが優しき心と言う。これまでという、道の理順序の理に違いてはどうもならん。親々内々の処、どうも楽しむ処無いなあと思うた処、取り替えれば、未だ暫くとも言うである。あちら眺めこちら眺め、道というものは心にあるで。通りよいものは道ではないで。又先々の心それ/\国々所々諭し、夜が明けたなら道という順序の道眺めてみて、並べてみて、又それ/\から日日の心に悔やしんで来たる。道というものを踏み留まりすりゃ、この一つの理をよく聞き分け。さあ/\楽しめ/\。

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