教祖殿逸話篇

61.廊下の下を

61.廊下の下を 明治11年、上田民蔵18才の時、母いそと共に、お屋敷へ帰らせて頂いた時のこと。教祖が、「民蔵さん、わたしとおまはんと、どちらが力強いか、力比べしよう。」と、仰せになり、教祖は、来たの上段にお上がりになり、民蔵は、その下から、一、二、三のかけ声で、お手を握って、引っ張り合いをした。力一杯引っ張ったが、教祖はビクとも

62.これより東

62.これより東 明治十一年十二月、大和国笠村の山本藤四郎は、父藤五郎が重い眼病にかかり、容態次第に悪化し、医者の手余りとなり、加持祈祷もその効なく、万策尽きて、絶望の淵に沈んでいたところ、知人から「庄屋敷には、病たすけの神様がござる。」 と聞き、どうでも父の病を救けて頂きたいとの一心から、長患いで衰弱し、且つ、眼病で足許の定まらぬ

63.目に見えん徳

63.目に見えん徳 教祖が、ある時、山中こいそに、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな。」と、おおせになった。こいそは、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます。」と、お答え申し上げた。

64.やんわり伸ばしたら

64.やんわり伸ばしたら ある日、泉田藤吉(註、通称熊吉)が、おぢば恋しくなって、帰らせて頂いたところ、教祖は、膝の上で小さな皺紙を伸ばしておられた。そして、お聞かせ下されたのには、「こんな皺紙でも、やんわり伸ばしたら、綺麗になって、又使えるのや。何一つ要らんというものはない。」と。お諭し頂いた泉田は、喜び勇んで大阪へかえり、又一層

65.用に使うとて

65.用に使うとて 明治十二年六月頃のこと。教祖が、毎晩のお話の中で、 「守りが要る、守りが要る。」と、仰せになるので、取次の仲田儀三郎、辻忠作、山本利八等が相談の上、秀司に願うたところ、「おりんさんが宜かろう。」という事になった。 そこで、早速、翌日の午前十時頃、秀司、仲田の後に、増井りんがついて、教祖のところへお伺いに行った。

66.安産

66.安産 前川喜三郎の妻たけが、長女きみを妊娠した時、をびや許しを頂きに、お屋敷へ帰らせて頂いたところ、教祖は、 「よう帰って来た。」と、仰せられ、更に、 「出産の時は、人の世話になること要らぬ。」と、お言葉を下された。 たけは、産気づいた時、家には誰も居なかったので、教祖の仰せ通り、自分で湯を沸かし、盥も用意し、自分で臍の緒を

67.かわいそうに

67.かわいそうに 抽冬鶴松は、幼少から身体が弱く、持病の胃病が昂じて、明治十二年、十六才の時に、危篤状態となり、医者も匙を投げてしまった。 この時、遠縁にあたる東尾の伝手で、浅野喜市が、にをいをかけてくれた。そのすすめで、入信を決意した鶴松は、両親に付き添われ、戸板に乗せてもらって、十二里の山坂を越えて、初めておぢば帰りをさせて頂

68.先は永いで

68.先は永いで 堺の平野辰次郎は、明治七年、十九才の頃から病弱となり、六年間、麩を常食として暮らしていた。ところが、明治十二年、二十四才の時、山本多三郎からにをいがかかり、神様のお話を聞かして頂いたその日から、麩の常食をやめて、一時に鰯を三十匹も食べられる、という不思議な御守護を頂いた。 その喜びにおぢばへ帰り、蒸風呂にも入れて

69.弟さんは、尚もほしい

69.弟さんは、尚もほしい 明治十二、三年頃の話。宮森与三郎が、お屋敷へお引き寄せ頂いた頃、教祖は、 「心の澄んだ余計人が入用。」と、お言葉を下された。 余計人と仰せられたのは、与三郎は、九人兄弟の三男で、家に居ても居なくても、別段差し支えのない、家にとっては余計な人という意味であり、心の澄んだというのは、生来、素直で正直で、別

70.麦かち

70.麦かち お屋敷で、春や秋に農作物の収穫で忙しくしていると、教祖がお出ましになって、 「私も手伝いましょう。」と、仰せになって、よくお手伝い下された。 麦かちの時に使う麦の穂を打つ柄棹には、大小二種類の道具があり、大きい方は「柄ガチ」と言って、打つ方と柄の長さがほぼ同じで、これは大きくて重いので、余程力がないと使えない。が