33.国の掛け橋
河内国柏原村の山本利三郎は、明治三年秋二十一才の時、村相撲を取って胸を打ち、三年間病の床に臥していた。医者にも見せ、あちらこちらで拝んでももらったが、少しもよくならない。それどころか、命旦夕に迫って来た。明治六年夏のことである。その時、同じ柏原村の「トウ」という木挽屋へ、大和の布留から働きに来ていた熊さんという木挽きが、にをいをかけてくれた。それで、父の利八が代参で、早速おぢばへ帰ると、教祖から、「この屋敷は、人間はじめ出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな病でも救からんことはない。早速に息子を連れておいで。おまえの来るのを、今日か明日かと待ってたのやで。」と、結構なお言葉を頂いた。もどって来て、これを伝えると、利三郎は、「大和の神様へお詣りしたい。」と言い出した。家族の者は、「とても、大和へ着くまで持たぬだろう。」と止めたが、利三郎は、「それでもよいから、その神様の側へ行きたい。」と、せがんだ。あまりの切望に、戸板を用意して、夜になってから、ひそかに門を出た。けれども、途中、竜田川の大橋まで来た時、利三郎の息が絶えてしまったので、一旦は引き返した。しかし、家に着くと、不思議と息を吹き返して、「死んでもよいから。」と言うので、水盃の上、夜遅く、提灯をつけて、又戸板をかついで大和へと向かった。その夜は、暗い夜だった。一行は、翌日の夕方遅く、ようやくおぢばへ着いた。既にお屋敷の門も閉まっていたので、付近の家で泊めてもらい、翌朝、死に瀕している利三郎を、教祖の御前へ運んだ。すると、教祖は、「案じる事はない。この屋敷に涯伏せ込むなら、必ず救かるのや。」と、仰せ下され、つづいて、「国の掛け橋、丸太橋、橋がなければ渡られん。差し上げるか、差し上げんか。荒木棟梁々々々々。」と、お言葉を下された。それから、風呂をお命じになり、「早く、風呂へお入り。」と、仰せ下され、風呂を出て来ると、「これで清々したやろ。」と、仰せ下された。そんな事の出来る容態ではなかったのに、利三郎は、少しも苦しまず、かえって、苦しみは去り、痛みは遠ざかって、教祖から頂いたお粥を三杯、おいしく頂戴した。こうして、教祖の温かい親心により、利三郎は、六日目にお救け頂き、一ヵ月滞在の後、柏原へもどって来た。その元気な姿に、村人達は驚歎した、という。