11.神が引き寄せた 11.神が引き寄せた それは、文久四年正月なかば頃、山中忠七三十八才の時であった。忠七の妻そのは、二年越しの痔の病が悪化して危篤の状態となり、既に数日間、流動物さえ喉を通らず、医者が二人まで、「見込みなし。」と、匙を投げてしまった。この時、芝村の清兵衞からにをいがかかった。そこで、忠七は、早速お屋敷へ帰らせて頂いて、教祖にお目通りさ 2018.08.15
12.肥のさづけ 12.肥のさづけ 教祖は、山中忠七に、「神の道について来るには、百姓すれば十分に肥も置き難くかろう。」とて、忠七に、肥のさづけをお渡し下され、「肥のさづけと言うても、何も法が効くのやない。めんめんの心の誠真実が効くのやで。」と、お諭しになり、「嘘か真か、試してみなされ。」と、仰せになった。忠七は、早速、二枚の田で、一方は十分に肥料を 2018.08.15
13.種を蒔くのやで 13.種を蒔くのやで 摂津国安立村に「種市」という屋号で花の種を売って歩く前田藤助、タツという夫婦があった。二人の間には、次々と子供が出来た。もう、これぐらいで結構と思っていると、慶応元年、また子供が生まれることになった。それで、タツは、大和の国に、願うと子供をおろして下さる神様があると聞いて、大和へ来た。しかし、そこへは行かず、不 2018.08.15
14.染物 14.染物 ある時、教祖が、 「明朝、染物をせよ。」と、仰せになって、こかんが、早速、その用意に取りかかっていた。すると、ちょうど同じ夜、大豆越でも、山中忠七が、扇の伺によってこのことを知ったので、早速、妻女のそのがその用意をして、翌朝未明に起き、泥や布地を背負うてお屋敷へ帰って来た。そして、その趣きを申し上げると、教祖は、 「あ 2018.08.15
15.この物種は 15.この物種は 慶応二年二月七日の夜遅くに、教祖は、既にお寝みになっていたが、 「神床の下に納めてある壷を、取り出せ。」と、仰せになって、壷を取り出させ、それから、山中忠七をお呼びになった。そして、お聞かせ下されたのに、 「これまで、おまえに、いろいろ許しを渡した。なれど、口で言うただけでは分かろうまい。神の道について来るのに 2018.08.15
16.子供が親のために 16.子供が親のために 桝井伊三郎の母キクが病気になり、次第に重く、危篤の容態になって来たので、伊三郎は、夜の明けるのを待ちかねて、伊豆七条村を出発し、50町の道のりを歩いてお屋敷へ帰り、教祖にお目通りさせて頂いて、「母親の身上の患いを、どうかお救けくださいませ。」と、お願いすると、教祖は、「伊三郎さん、せっかくやけれども、身上救か 2018.08.15
18.理の歌 18.理の歌 十二下りのお歌が出来た時に、教祖は、 「これが、つとめの歌や。どんな節を付けたらよいか、皆めいめいに、思うように歌うてみよ。」と、仰せられた。そこで、皆の者が、めいめいに歌うたところ、それを聞いておられた教祖は、 「皆、歌うてくれたが、そういうふうに歌うのではない。こういうふうに歌うのや。」と、みずから声を張り上げて、 2018.08.15
19.子供が羽根を 19.子供が羽根を 「みかぐらうたのうち、てをどりの歌は、慶応三年正月にはじまり、同八月に到る八ヵ月の間に、神様が刻限々々に、お教え下されたものです。これが、世界へ一番最初はじめ出したのであります。お手振りは、満三年かかりました。教祖は、三度まで教えて下さるので、六人のうち三人立つ、三人は見てる。教祖は、お手振りして教えて下されまし 2018.08.15
20.女児出産 20.女児出産 慶応四年三月初旬、山中忠七がお屋敷で泊めて頂いて、その翌朝、教祖に朝の御挨拶を申し上げに出ると、教祖は、 「忠七さん、昨晩あんたの宅で女の児が出産て、皆、あんたのかえりを待っているから、早よう去んでおやり。」と、仰せになった。 忠七は、未だそんなに早く生まれるとは思っていなかったので、昨夜もお屋敷で泊めてもらった程で 2018.08.15