72.救かる身やもの
明治13年4月頃から、和泉国の村上幸三郎は、男盛りのさ中というのに、座骨神経痛のために手足の自由を失い、激しい痛みにおそわれ、食事も進まない状態となった。医者にもかかり様々な治療の限りをつくしたが、その効果なく、本人はもとより、家族の者も、奈落の底へ落とされた思いで、明け暮れしていた。何とかしてと思う一念から、竜田の近くの神南村にお灸の名医が居ると聞いて、要ったところ、不在のためガッカリしたが、この時、平素、奉公人や出入りの商人から聞いていた庄屋敷の生神様を思い出し、ここまで来たのだからとて、庄屋敷村をめざして帰って来た。そして、教祖に親しくお目にかからせて頂いた。教祖は、「救かるで、救かるで。救かる身やもの。」と、お声をおかけ下され、いろいろ珍しい、お話をお聞かせ下された。そして、かえり際には、紙の上に載せた饅頭三つと、お水を下された。幸三郎は、身も心も洗われたような、清々しい気持ちになって帰途についた。家に着くと、遠距離を人力車に乗って来たのに、少しも疲れを感ぜず、むしろ快適な心地であった。そして、教祖から頂いたお水を、なむてんりわうのみこと、なむてんりわうのみことと、唱えながら、痛む腰につけていると、三日目には痛みは夢の如くとれた。そして半年。おぢば帰りのたびに身上は回復へ向かい、次第に達者にして頂き、明けて明治14年の正月には、本復祝を行った。幸三郎42才の春であった。感謝の気持ちは、自然を足をおぢばへ向かわしめた。おぢばへ帰った幸三郎は、教祖に早速御恩返しの方法をお伺いした。教祖は、「金や物やないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように。」と、仰せられた。幸三郎は、そのお言葉通り、たすけ一条の道への邁進を堅く誓ったのであった。