197.働く手は
教祖がいつもお聞かせ下されたお話に、「世界中互いに助け合いするなら、末の案じも危なきもない。仕事はなんぼでもあるけれどもその仕事をする手がない家もあれば、仕事をする手はなんぼでもあるが、する仕事がない家もある。奉公すればこれは親方のものと思わず、陰日向なく自分のことと思うてするのやで。秋にでも、今日は鬱陶しいと思うたら自分のものやと思うて筵でも何でも始末せにゃならん。陰日向なく働き、人を助けて置くから、秋が来たら襦袢をこしらえてやろう、何々してやろう、と言うようになってくる。こうなってくると双方助かる。同じ働きをしても、陰日向なく自分のことと思うて働くから、あの人は如才ない人であるから、あの人を雇うというようになってくる。こうなってくるとなんぼうでも仕事がある。この屋敷にいるものも、自分の仕事であると思うから、夜昼こうしよう、ああしようと心にかけてする。我が事と思うてするから我が事になる。ここは自分の家や、我が事と思うてすると、自分の家になる。陰日向をしてなまくらをすると、自分の家として居られぬようになる。この屋敷には、働く手はいくらでもほしい。働かん手は一人もいらん。」と。又あるときのお話に、「働くというのは、はたはたの者を楽にするから働くというのや。」とお聞かせ下された。