子育ては自分育て
子育ては自分育て 静岡県在住 末吉 喜恵 子育ては自分育てと言われています。子供の成長と同様に自分も成長するのだなと実感しています。 私は5人の子供を育てていますが、子供たちもそれぞれ違う性格で、私の性格とも全然違います。赤ちゃんの時からその性格を尊重してあげることはとても大切ですが、難しい時もあります。 長女は私とはまるで正反対の性格です。私は楽天家で「なんとかなるさー」と、考えるより先に行動してしまうタイプですが、長女は慎重派で「なんとかならなかったらどうしよう?」と考え、石橋を叩いて渡るタイプです。 小学生の時も、「忘れ物したらどうしよう」「お友達とケンカしたらどうしよう」「怪我したらどうしよう」などと、何をするにも不安が先に来るのです。「大丈夫、大丈夫」と言っても納得がいくまでランドセルの中身を確認したり、自分の気持ちを整えるまでとても時間のかかる子でした。 「早く、早く」という言葉をできるだけ使わないように、私もできるだけ心を落ち着かせて付き合っていました。 こんなこともありました。次女と三女の双子が生後3ヶ月で、長女が2歳の時の話です。双子用ベビーカーを押し、長女を歩かせて近所をお散歩していました。押しボタン信号があり、信号が青に変わったので横断歩道を渡りました。 私は長女が付いて来ているものと思い、後ろを振り返ると、まだ横断歩道を渡らずに反対側の電柱の周りをくるくる回っていました。信号はすぐ赤になり、車道側が青色になってしまいました。 私はドキドキしながら「そこで待ってて!」と長女に言いましたが、もし車道に飛び出したらどうしようと、気が気でありませんでした。しかし、ドライバーの方が「いいですよ。迎えに行ってください」というジェスチャーをして待ってくれていました。 そのおかげでベビーカーをその場に置き、横断歩道を渡って長女を迎えに行き、抱きかかえながら戻ってくることができました。親切なドライバーの方にお礼を申し上げ、たすかったと心から感謝しました。 また、長男は無鉄砲なところがあり、公園につくと遊具にまっしぐらに向かい、レジャーシートを敷いているうちに見失ってしまうこともありました。 長男が3歳の時のことです。とても大きな海の見える公園に行くと、子供たち4人がそれぞれ違う方向へ遊びに行きました。探しに行くと、3人の娘たちはすぐ見つかりましたが、長男が見つかりません。連休中で、しかも新しくできた海賊船があるとても有名な公園なので、大勢の人で賑わっていました。 いろんな遊具や砂場、水遊びができるところなどを探しましたが、見つかりません。3人の娘たちに聞いても「知らない」と素知らぬ顔で遊んでいます。夫と二人で探し回りましたが、やはり見つからず次第に焦ってきました。 すると放送が流れ、「迷子のお知らせです」と、長男の名前がアナウンスされました。大人に囲まれて大泣きしていたようです。たすけてくださった方には、本当に感謝しました。 子育てをしていると本当に色々なことが起きてくるものです。これ以外にも小さな親切は色々なところにあります。その小さな親切を見逃すことなく、感謝の気持ちを言葉で伝えていくことが大切だなと思いました。 子供は、親自身が成長するために神様から預からせて頂いている、大きな宝物です。子供を通じて学び、鍛えられ、心を成長させることが出来ているように思います。 小さい頃は自分で出来ることが少なく、親が色々と世話取りをしてあげなければならないし、将来のことを心配してとやかく言ってしまうこともあります。子供の生きる力をいかに信じるかが試されているようです。 ややもすると、子供を自分の分身のように思ってしまうこともありますが、子供一人ひとりに持って生まれた徳分があり、その子供の個性を尊重してあげることが大切だと思います。 自分の思いと子供の思いが違う時でも心に折り合いをつけ、できるだけ子供の気持ちに寄り添い、その思いを分かってあげたいです。 私は子育て支援活動をしていますが、講座などでお話をする時、お母さん方に「どんな子供に育てたいですか?」という質問をします。すると、「人に迷惑をかけない子供に育てたい」というお母さんが多いのです。 けれど、人に迷惑をかけずに生きていくのは不可能に近いことです。みんなそれぞれ、お互いに迷惑をかけ合いながらでも、たすけ合っていけば良いのではないでしょうか。 人に迷惑をかけてしまうかもしれない、そんな自分を認めながら、感謝の言葉をすぐに言える子になって欲しいと思っています。よく幼い子に「ありがとうは?」と言って無理にお辞儀をさせる方を見かけますが、それより親自身が「ありがとう」とお礼をする姿を子供に見せることが大切です。 そして、人のために役に立ちたいと思ってもらえるような子に育てたいと思います。その気持ちはどのように育つかといえば、やはり「お手伝い」ではないでしょうか。 3歳から5歳ぐらいの頃は、親のやっていることを真似したくなる時期で、お手伝いをしたいという心が育ってきます。そんな時は「時間がかかるから」とか「散らかるからダメ」と面倒がるのではなく、私も積極的にお手伝いをさせてきました。 3歳から使える子供用の包丁を使い、色んなものを切ってもらいました。最初は簡単なレタスやキャベツから。形はいびつでも、「よく切れたね、上手だねえ、たすかるよ」と声を掛けました。料理が出来上がり、いざテーブルに運んでもらうとぐちゃぐちゃになってしまうこともありましたが、「とっても上手に並べてくれたね。お手伝いしたいと思う気持ちがとっても嬉しいよ」と声を掛けてきました。子供にとっては小さな成功体験をすることで、もっと人の役に立ちたいという気持ちが芽生えてくるのです。 私自身、子供たちに「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えることを忘れないように心がけてきました。子供の存在そのものがありがたいと思い、自分を母親にしてくれたという感謝の気持ちを込めて、毎晩子守唄で「ママの子供に生まれてきてくれてありがとう。大好き!」と歌い続けてきました。 なかなか言葉に出して言うのは恥ずかしいことかも知れませんが、言葉に出さなければ伝わらないことも必ずあります。5人の子育てをしていて、自分自身も大きく成長させて頂けたと、感謝の思いでいっぱいです。 にをいがけ 私たちが物事を理解する上で、見るという働きは大きな力です。よく「百聞は一見に如かず」と言いますが、たしかに百回聞くより一回見ることのほうが、より物事の本質に近づける場合も多くあります。 といって、聞くことを疎かにはできません。目に見えない大切なものもあるからです。人の心などはまさしくそうで、言葉を聞くことのなかにその人の気持ちに近づくこともできるでしょう。 そして嗅覚、匂いもまた五感の一つです。見えるものでもなく、聞こえるものでもなく、また触ること、触覚とも違い、形も分かりません。何だか頼りないように思えますが、しかし匂いほど強烈に私たちの感覚を刺激し、記憶に残ることもないのです。 どこからかお肉を焼くいい匂いがしてきて、食欲をそそります。色とりどりに咲く花の匂いで、季節を感じることができます。その人、その家特有の匂いが様々な記憶を呼び起こすこともあります。 しかし、悪臭、悪い匂いというのも多くあって、これは遠慮したいものです。いくら見た目が美しく、味わい豊かな食卓を囲んでも、匂い一つで台無しになってしまうかも知れません。 このように私たちの持つ五感について並べていくと、「にをいがけ」というこの教え独特の表現に思い至ります。にをいがけとは、教えを伝え弘めることで、言わば神様の匂いを伝えることです。その匂いは、自らが神様の教えを日々実行していく中に身についてくるものであって、香水を振りかけてお終いというような、簡単なことではありません。 神様のお言葉に、「さあ/\どんな者も皆寄り来る。めん/\我がものと思うて、花の色匂いを取る心が世界では分からんで。匂い取り兼ねる/\。人間心の色はどうもならん」とあります。(M21・7・17) いい匂いのする所には、人が自然と寄ってきます。しかし、私たちは自分の匂いというものはなかなか分からないものです。 神様は、人間心という匂いを取ることを忘れてはならない、とお諭しくださいます。人間思案、わが身思案の心遣いを捨て去って、どこまでも、神様の教えに基づいた匂いのするお互いでありたいものです。 (終)