私は100倍嬉しいです

私は100倍嬉しいです  大阪府在住  山本 達則 私が教会長になって、4、5年経った頃のことです。私と同年代の男性の信者さんがおられました。お互い結婚の時期も近く、長男同士が同級生で、私の長女とその方の次男が同級生でした。住まいが近いこともあって、子供たち同士、きょうだいのように仲良くしていました。 その方の奥さんは、天理教のことは全く知らない方でしたが、信仰家庭に嫁いだということで、信仰について積極的に学び、教会の用事も進んで手伝ってくれていました。その奥さんが、ただ一度だけ、私に怒りを露わにしてきたことがありました。 私は教会長に就任した当初、会長を務める一方、世間で仕事を持っていました。しかし、ある時そのことに行き詰まりを感じ、夫婦で相談した結果、仕事を辞めるという選択をしました。すると、私のその決断に対して、奥さんがこう言われたのです。 「会長さんは無責任過ぎると思います。せめて子供たちが父親の仕事を理解して納得できるまでは、今の形で育ててあげるべきだと思います。子供たちが可愛そうです」。それは、私の子供たちのことを思っての怒りでした。 その頃は私もそれなりの収入があったので、時には家族で外食に行ったり、世間並みに子供たちに流行の物を買ってやることも出来ました。しかし、仕事を辞めれば、それまで子供たちにしていたことが出来なくなるのは火を見るより明らかでした。奥さんは、私たち夫婦のその決断が理解できなかったのです。 当時、まだ若かった私は、必死になって自分の思いを説明しました。 「欲しい物が与えられる喜び、行きたい所に行ける喜びは確かにあります。ある意味、親として子供に出来る限りそうしてあげるべきだという思いもあります。でも、欲しい物が与えられない、願い通りにならないということの中にも喜びはあると思うのです。うちの子供たちには、そのような喜びを感じてもらえるように育てていきたいんです」。 奥さんにはそれでも納得して頂けず、ギクシャクした感じが続きましたが、教会へは参拝に来てくれていました。 このご夫婦には二人の息子さんがいて、次男はダウン症を患っていました。ダウン症は特定疾患にも指定されている、確立された治療法のない病気で、子供は様々なリスクを背負って生まれてきますが、ご夫婦はそのことを受け入れ、一生懸命に育てていました。 私が仕事を辞めて数年が経った頃、ある日の教会行事に奥さんがダウン症の次男を連れて参加していました。食事の時間になり、私は部屋の端から様子を見ていたのですが、息子さんは、やはり健常な子供に比べて発育も遅れ気味で、偏食もきつく、4歳になってもまだお箸は使えず、フォークやスプーンの使い方も覚束ない感じで、常に奥さんがそばに寄り添って食事をしていました。 私が「大変やね」と声を掛けると、奥さんは私の方を振り向いて、満面の笑顔で「これ、すごく楽しいんですよ」と答えてくれました。 私はあまりの笑顔に驚いてしまい、「そうなんやね」と返すだけでその場の会話は終わりました。食事のあと、子供たちが喜々として遊んでいる様子を見ていた私に、奥さんがあらためて話しかけてくれました。 「会長さん。会長さんが仕事をやめた時、私が何て言ったか覚えてますか?子供たちに対して無責任だって言ったんです。だって、ものすごく腹が立ったから。けど、あの時、会長さんが話してくれた『与えられない中にも喜びはある』ということが、この子を育てていてよく分かるんです。 会長さんも子供が四人おられて、そのお子さんの成長を感じることは、間違いなく嬉しいことですよね。でも私は、それより100倍は嬉しいです! 首が据わって、お座りして、ハイハイして、つかまり立ち、よちよち歩き…。親として、その成長する姿を見るのは本当に嬉しいことだと思います。でも、うちの子供は首が据わったのが生後半年を過ぎてからでした。 ある日、夜中に目が覚めると、この子が寝返りを打とうとしていました。私は主人を起こして、必死に寝返りしようとしているこの子を朝まで応援しました。明け方になって、『ゴロン』と寝返りを打ってくれた時には、夫婦で抱き合って涙を流して喜びました。いつも牛乳しか飲まないこの子が、時々お茶に興味を持ってくれるだけで、嬉しくて嬉しくて…。この子は色んなことが出来にくい子ではありません。私たちに他のどの子よりもたくさんの喜びを運んでくれる子なんです」 彼女は、ニコニコしながらそう話してくれました。 お互いは、目の前に起きてくる事柄について、ついつい損得勘定や好き嫌いの感情に左右されがちになります。しかし、そこをもう少し心を落ち着かせて目を凝らしてみると、その中に必ず喜びが隠されているのではないか。このご家族とふれあう中で、そう確信しました。 親神様は「人間は、陽気ぐらしをするためにこの世に生まれてくる」と教えてくださいます。自分自身の自由になる心の持ちようで、すべてを喜びに変えられるのだと、思いを新たにしました。 生来の短気者 大阪で左官業を営んでいた梅谷四郎兵衛さんは、決して裕福ではないものの、家族と仲睦まじく暮らしていました。ただ一つ気がかりなのは、兄の眼の患いで、その平癒を願い、あちこちの神仏へお参りをしていました。 そんな折、明治十四年二月、「大和に生き神様がいる」との噂を耳にし、初めてお屋敷へ帰らせて頂きました。もともと信心好きな四郎兵衛さんでしたが、「かしもの・かりもの」「八つのほこり」など、それまで聞いたのとは全く違う真実の神の話に感銘し、その場でこの道に生涯を捧げる決意を固めたのです。 そんな四郎兵衛さんと教祖をめぐって、こんな逸話が残されています。 教祖は、入信後間もない四郎兵衛さんに、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」とお諭し下さいました。生来、四郎兵衛さんは気の短いほうでした。 明治十六年、折から普請中の御休息所の壁塗りひのきしんをさせて頂いていたところ、「大阪の食い詰め左官が、大和三界まで仕事に来て」との陰口を聞いて、激しい憤りから、深夜ひそかに荷物を取りまとめて大阪へ戻ろうとしました。 足音を忍ばせ、中南の門屋を出ようとした時、教祖の咳払いが聞こえてきました。「あ、教祖が」と思ったとたんに足は止まり、腹立ちも消え去ってしまいました。 翌朝、四郎兵衛さんが、お屋敷の人々と共にご飯を頂戴しているところへ教祖がお出ましになり、「四郎兵衛さん、人がめどか、神がめどか、神さんめどやで」と仰せ下さいました。(教祖伝逸話篇123「人がめどか」) 四郎兵衛さんは、のちに船場大教会の初代会長となりましたが、教えを伝える上から、家族や教会につながる人々に、しばしばカミナリを落としました。とはいえ、教祖の教えを生涯の心として、自分の身勝手や都合だけで腹を立てることは決してしませんでした。 こんな話も残っています。四郎兵衛さんが臨終を迎えようとする時、身の回りの世話をしていたある婦人に、か細い声でこう伝えました。「長い間世話をかけたなあ。わがままなワシによう仕えてくれた。礼を言うで。今度は、親切な、やさしい人間に生まれてくるから、よろしく頼むで」。 生来の短気者であった四郎兵衛さんだからこそ、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」との教祖のお言葉が、心に深く刻み込まれたのではないでしょうか。 (終)

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