「天理王命・てんりおうのみこと」とは?
天理教を信仰している信者は、神を「親神・おやがみ」と呼び、「天理王命・てんりおうのみこと」ととなえて、その守護を祈念しています。
「天理王命」と書いて、「てんりおうのみこと」と読みます。
天理教の神は一神教ですが、様々な呼び名があります。
目次
「天理王命・てんりおうのみこと」の様々な呼び方
- てんりおふのみこと
- てんりおうのみこと
- 天輪王命
- 天龍王命
- 天輪王明神
- 転輪王命
- 天倫王命
- 天理大神
- 天理王命
など、様々な表記が見られます。
発音上では「天龍王命・テンリューオウノミコト」を除けば、「テンリンオウ」と「テンリオウ」の2種類の呼び方があります。
天理王命とは、天理教の原典の一つである「みかぐらうた」において「なむてんりわうのみこと」とくりかえし唱えられ・記されています。
また、「てんりわうのつとめする」とも述べられているように、親神を祈念するために教えられた呼称です。
天理王命・てんりおうのみことの名前の意味・解釈
漢字の意味から推した理解として、次のようにいわれています。
「天理王の王は、心王心所(※仏教用語)と使用された場合の王の如き意味内容を有するものと思う。すなわち心王とは心そのものの事であり、心所とは心所法有の略で、心の所有するもの、心に有せられるもの、心に属するものという意味で、心の動きをいうが、天理と王との関係は正にかかるものであろう。即ち、王は天理の窮極的根源を象徴するもので、いわば本質的な神そのものであり、天理は存在的な神の働き属性とういうべきものを意味されるものであろう。」
(深谷思政「天理教教義試論」『日本文化』第33号所収、42頁)。
これらを踏まえると、
天理 ⇔ 神の働きの属性を意味する
王 ⇔ 天理の根源を象徴しており、本質的な神のことを指す。
命 ⇔ 神道などでは、神名の末尾には、大抵「命」もしくは「尊」という文字のいずれかが敬称として使われる為
と推測できます。
あくまでも推測なので、正しいかどうかは分かりません。
おさしづにおける天理王命・てんりおうのみこと
「おさしづ」において、
「天理王命の旗をあちらこちらに立て、何と変わるもの。一人も寄せ付けなんだ日もあった。又黒衣を着せた日もあった。実が誠か、誠が実か。見えねば分かるまい。」
(おさしづ・明治20年3月16日)
「天理王命というは、五十年前より誠の理である。「こゝに一つの処、天理王命という原因は、元無い人間を拵えた神一条である。元五十年前より始まった。元聞き分けて貰いたい。何処其処で誰それという者でない。ほん何でもない百姓家の者、何にも知らん女一人。何でもない者や。それだめの教を説くという処の理を聞き分け。何処へ見に行ったでなし、何習うたやなし、女の処入り込んで理を弘める処、よう聞き分けてくれ。」。
(おさしづ・明治21年1月8日)
と述べられています。
こうした上から、本来的には天理王命の神名は教祖(おやさま)自らが負われるべきものといえそうです。
しかしながら、ぢばにその神名を授けられたのです。
この点について、「こふき本」(こうき本)に次のように記されています(<>内は補筆)。
「この度、天輪王の命となをさつけ給ふわ、とふねん八十六歳<に>もなる中山みき、このも<の>せんぶにあるとふり、わかいときより、ただ、人をたすけるこころひとすしのもの、このこゝろを月日しかとうけとりみすませ<ば>、このもののたましというわ、いざなみの命のたまひをむまれさせおきたことゆゑ、四十六年以前あまくたり、躰内を月日の社にもらひうけ、こゝろを天りにかのたゆゑに、みきのかわ<り>にこのやしきに天輪王の命となをさつけ、また屋敷は人間やとしこみもとのぢばのことゆゑに、地めなにさつけたもふなり。」
(16年本「こふきの研究』125-126頁)
親神天理王命は何もないところから、人間をはじめ、すべてのものを創造された根源の神、究極の神(おふでさき3号15、18、4号62など)であると同時に、現にいきいきと、その働きを現しだしている真実の神(おふでさき3号85、4号35、5号49、6号50)であることが記されています。
このことを、端的に「元の神・実の神」(みかぐらうた三下り目9,10)と教えられています。
おふでさきにおける天理王命・てんりおうのみこと
「おふでさき」にも、次のように記されいます。
このよふのにんけんはじめもとの神 たれもしりたるものハあるまい
(おふでさき3号15)
どろうみのなかよりしゅごふをしへかけ それがたん/\さかんなるぞや
(おふでさき3号16)
加えて、親神は不思議な創造の働きを人類救済の働きとして、今に現されているのです。
その意味から、親神による救済の筋道は、人間創造の元の理に基づいています。
すなわち、親神は人間創造の母胎としてのいんねんある教祖においてみずからを顕現され、その救済の実現は、人間創造の原点であるぢばを発動の中心として、無限に展開されるのです。
どのよふなたすけするのもしんちつの をやがいるからみなひきうける
おふでさき7号101
とのよふなたすけとゆうもしんちつの をやがいるから月日ゆうのや
(おふでさき8号46)
この月日もとなるぢばや元なるの いんねんあるでちうよぢさいを
(おふでさき8号47)
このようにして、「地上の月日」たる教祖は、自ら負われるべき「天理王命」の神名を元なるぢばに授け、自らは現身をかくされた後もなお存命のまま、ぢばに留まってたすけ一条の守護を現されているのです。
こうした意味で、親神天理王命と教祖とぢばは、存在の上からは三者でありながら、全人類の救済の筋道からみるとき、その理は一つであることが分かります。
天理教の目的である「陽気ぐらし」へのたすけ一条の道は、この理をうけて、はじめて成就されるです。
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