諭達 中山 正善

諭達第二号 昭和三十六年四月二十六日 中山正善

諭達第二号

本年一月二十六日、教祖年祭にゆかりある春季大祭の日を以て公示したように、来る昭和四十一年に教祖八十年祭を執り行うにあたり、思うところを述べて教内全般の心定めに資したい。

教祖は一れつの子供可愛いそれゆえに、扉を開いて世界をろくぢにふみならそうとの深い思召しから、定命を縮めて現身をおかくしなされたが、地上の月日におわす御理は、今もなお存命同様子供の成人をおみまもりくだされている。この存命の教祖の御心に応え、我々子供たちの心の成人を御照覧いただいて、おいさみいただくことが教祖年祭を執り行う根本の意義である。子供の成人こそは、教祖が定命を縮めてまでも御心におかけくだされたところであるから、それが教祖にお応えする子供たちの、何よりもの心尽くしであることはいうまでもない。翻ってまた同時に、地上の月日にてあらせられる教祖に守られて、銘々子供たちが陽氣ぐらしのよろこびをお恵みいただく道でもある。

さきに復元の道をたずね、神一条の精神、ひのきしんの徹底、一手一つの和の三信條をかかげて陽氣ぐらしへの道を求め、また、朝起き、正直、はたらきの教えの実行によって、身近かな日々の生活から明るくしてゆくよう説き奨めた。なお進んでは、教祖のひながたをたどって信仰生活の徹底を期し、さらに、一れつのたすけを急込み給う親神のよふぼくたるものの指針としては、内にたんのうの心を治め、外に向かっては親切の真心を尽すようさとしてきた。これ偏に、仰いでは親神、教祖に応えて、いよいよ厚い御守護を祈り、かえりみては心の道しるべとして、あい互いに心の成人を期したいとの願いに外ならない。

されば、八十年祭執行の期日を定め、日々に養いきたつた成人の心を結集して、いよいよ年祭準備の勤めに励みつつ、さらに一段の成人をお見せいただくべき時を迎えた今日、先ず、ここに陳べるところを胸のうちより思案して、成人への楽しみに勇みつつ、年祭の御用にそれぞれの真心を伏せこむ心定めが肝要である。

みかぐら歌に

ふしぎなふしんをするなれど たれにたのみハかけんでな

みなだん々々とせかいから よりきたことならでけてくる

また

むりにでやうといふでない こ々ろさだめのつくまでハ

と仰せられている。

信仰のよろこびから、止むにやまれぬ熱情を以て自ら進んで勤めきるのが、親神の御用にあずかるものの態度であり、また親神のうけ給うところである。あい互いに成人への希望に燃えて、日々楽しくうれしく尽くはこんでこそ、一粒萬倍の理となって、たのもしい成人をお見せいただける。これが天理である。

およそ人生の道すがらには、事にあたりものにふれて、時に難渋をかこち或は失望不安におそわれる場合が、ないとはいえない。しかし、それは我が身思案による心の影とさとり、我欲を忘れて親神にもたれ、教祖ひながたの道をたどる心になる時、難儀苦労は転じて楽しみに、失望不安は希望に切り替えていただける。かかる年限の積み重ねこそ成人への道である。

年頭にあたり、「人間思案による自己依存を捨て、自己を忘れ、もっぱら親神様にすがって歩ませていただく心になったとき、自他ともに無理だ、無理だと思われた旅路を、つつがなく最後までおつれいただけた」と語ったが、この体験は私にとりまことに有難いことであったと感謝している。

思うに「神がこの屋敷へ天下って七十五年たてば、日本あらあらすます。それから先は、世界隅から隅まで天理王命の名を流す」とのお言葉は、「はじめた理とをさまりた理と、理は一つである」とのおさしづと思い合わせ、子供の成人をおうながしくだされる、一つのふしをお示しになったものとさとる時、子供の成人をおもい現身をおかくしになった、明治二十年から数えて七十五年目に相当する今年、昭和三十六年は、世界の事情によって已むなく一時歩みをゆるめていた海外への伝道を再び活発におし進めて、一れつのたすけを急き込み給う思召に応えるべき仕切りの時旬である。

あらためていうまでもなく、よふぼく本来の使命は、親神の思召しを体して、日本国中はもとより、世界隅から隅まで、一れつの子供にだめの教えを伝えて、平和を希求しながら、対立の冷たさに不安をいだく世界のすがたが、陽氣ぐらしの世のさまにたちかわるよう御守護をいただくにある。殊に親神が常に先回りして、おはたらきくだされていることを思えば、なんの不安もない。

よろしく、よふぼくたるものは小成に心をゆるさず、いよいよ世界たすけの重い使命を自覚し、世界隅から隅までの思召しにそうべき大きい心を定めるのが、この時旬に処する心構えである。もうこれだけ道ひろまった、もう大丈夫と思う一日の心のゆるみが、千日のおくれとなる。まだまだ十分やない、一寸のかかりという事情、これからという心を定めて勤めきってこそ、世界たすけのこうのうをお見せ頂ける。「十分のぼればくだるより外ないほどに」とお戒めを心胆に銘じ、現状にあまんじることなく、広い世界の隅々までも天理王命の神名がゆきわたるべき将来の往還を楽しみに、遠大の希望を親神に託して、この年祭の時旬の勤めをはたしたいと切に念願する。

願わくば、土地ところの名称のしんとしてゆるされている教会長は、「そのものから心わかってくれ」との切なる親の御思いを片時も忘れず、ややもすれば陥りやすい人間一條の道におされ、世界の事情に心を奪われて生涯の道をあやまたぬよう、先ず自ら真の道の理を心におさめ身につけて不動の信念を固め、常に反省して足らぬところはこれを補い、親神よりゆだねられているそれぞれの教会を、陽氣ぐらしの雛型たらしめる重責を自覚して、たすけ一條の道の先達となり、教人は道の理に順い、よふぼくは心を合わせてその任を全うし、信者は互いにたすけあい、皆一手一つに心を堅く結びつつ、勇んでたのもしい道の理を人々に伝え、あれでこそ真の道であると、世界一れつにうつる日を心から待望する。

昭和三十六年四月二十六日 真柱 中山正善