諭達 中山 善衛

諭達第四号 立教百五十六年十月二十六日 中山 善衛

諭達第四号

立教百五十九年一月二十六日、教祖百十年祭を迎えるにあたり、一言、諭達をもって、全教の心を一つにしたい。

親神様は、旬刻限の到来により、教祖をやしろに元のぢばに現れ給い、世界一れつをたすけるだめの教えをお啓きくだされた。

以来、教祖は、月日のお心のままに、元初まりの真実を明かし、かしもの・かりものの理を説いて、たすけづとめを教え、陽気づくめの誠の道をおつけくだされた。そして明治二十年正月二十六日、この道を通る子供の成人をひたすらお待ちくだされ、定命を二十五年縮めて、御身をおかくしあそばされた。しかも、子供を思う親心から、今も存命のまま元のやしきに留まり、よろづたすけの上にお働きくだされている。

この道にお引き寄せいただく道の子一同は、立教の本旨に思いを致し、おかけいただく教祖の大いなる親心にお応え申さねばならない。旬を仕切って、一手一つに、この教祖のお心に応えて、たすけ一条の歩みを、ひながた通り、一人ひとりが、真剣に実践し、成人することが、教祖の年祭を勤める意義である。教会長といわず、よふぼくといわず、また、信者といわず、一人ひとりのたすけ一条の成人の実が、結果としては、教会の内容充実に現れるご守護をいただきたいと願ってやまない。

およそ真面目に信仰する者なら、教祖のひながたを手本に、真っすぐ道を歩もうと思わぬ者は無い。しかし、時には、様々の事情や身上をお見せいただき、磨きをおかけいただくこともある。容易ならぬその中を、挫折することなく、ひたすら教祖の道すがらを見つめて真剣に通れば、何も心配は要らない。神一条とはそのことであり、これがひながたをたどるよふぼくの力強さである。

そもそも、教会は、ぢば一つに心を寄せてつとめをする神一条の精神に許されたものである。

よふぼくの一人ひとりがその自覚に立って、たすけ一条の勤めに励むところには、事情の起こる隙はない。煩わしい事情や身上は、これを忘れ、人間思案の我欲に負けて、ともすれば、一手一つの心が乱れる時に起こりがちである。

おかきさげに、よふぼくの生涯の理を諭して、誠一つを仰せ下される。この誠の道は、教祖が御自らお通り下された、五十年のひながたにお示しいただくところである。

誠は言うは易く、行うは難しい。この難しい誠の道も、教祖のひながたを見失わぬ限り、通り切らせていただくことができる。こんな有難いことはない。

一名一人の心に、この誠一つの理があれば、内内は十分睦ましく治まり、陽気な姿が教会にも現れ出る。みな揃うて誠の心なら、その精神に乗って、親神様は、いかな自由の守護もお見せくだされる。

道の子は、等しく、心の成人をお待ちくだされている教祖の親心にお応え申して、日日は、ぢば一つに心を寄せて、神一条、たすけ一条に、尽し運び、慎みと報謝の心で、誠の道を、仕切り根性、仕切り力、仕切り知恵をもって、積極的に歩み抜かせていただき、自らの成人の実が、陽気ぐらしの手本と言われる教会の内容充実の上に現われ出るように、願い通らせていただきたい。

みかぐらうたに、

みなせかいがよりあうて

でけたちきたるがこれふしぎ 三下り目3

よう/\ここまでついてきた

じつのたすけハこれからや 三下り目4

いつもわらはれそしられて

めづらしたすけをするほどに 三下り目5

と仰せくだされている。

ただひたすらに、つとめをお急き込みくだされた教祖に、各各が、一歩一歩の地道、且つ、力強い歩みをすすめ、年限に相応しい成人の実をもって、応え奉らんことを切望する。

立教百五十六年十月二十六日 真柱 中山 善衛

諭達第三号 昭和五十六年一月二十六日 中山 善衛

諭達第三号

教祖が、一れつ子供可愛い親心から、やしろの扉を開いて、世界ろくぢに踏み均しに出られ、御存命のお働きをもって、たすけ一条の道の先頭にお立ち下されてより、既に九十余年、来る昭和六十一年一月には百年を数える。我我は、教祖百年祭を執行するにあたり、その元一日を振り返り、親心を偲び、今後の決意を新たにしたい。

百年は十年を十度繰り返して過した年月の重さを物語る。百という字の意は、白紙に戻り一より始めるを謂う。

親神様は、人間を創造られる時、九十九年毎に出直を繰り返させて、生み且つ育てられた。人間は、五分から生まれ五分五分と成人し、生まれ更りを重ねて今日を迎えた。

教祖百年祭の意義は、立教の元一日をたずね、ひながたをたどり、さらに、子供の成人を急き込んで御身をかくされた元一日にかえり、親神様が人間世界を創造り給うた元初まりの思召である陽気ぐらしを実践することにある。

天保九年十月、親神様は、「我は元の神・実の神である。」と啓示られ、教祖を神のやしろに貰い受け、初めて人間世界に現れ給うた。以来、教祖は、世界一れつを救けたいとの親神様の思召のままに、神一条・たすけ一条の道を歩まれ、五十年の長きにわたって、やまさかやいばらぐろふもがけみちも、心明るく通り抜け、真実の限りを尽して寄り来る人人を育て、つとめの完成とさづけの徹底をもって、この世が陽気ぐらしの世界と立て替わるよう図られた。しかるに、親を慕い親を思う子供の情愛は、親に従うことの尊さを承知しながらも、容易には親の道に踏み切れなかった。教祖は、こうした子供の信条を不憫と思召され、定命を縮めて御身をかくされた。

しかしながら、教祖は、姿はかくしても存命で働く、と仰せられ、おとこば通り、世界たすけに夜昼の区別なくお働き下されて、その御導きは末代に及ぶ。

刻限に、「ひながたの道を通らねばひながた要らん。」と仰せられている。今こそ、全教あげて、御身をかくされてまで世界たすけを急き込まれた親の心に溶け込み、一手一つに互い立て合い扶け合い、陽気づくめに勇んで、ひながたの道を通らせていただかねばならぬ旬である。

かねてから、「四方正面鏡やしき」と教えられた教えを、些かなりと形に表したいと、教祖百年祭の旬に、東西礼拝場普請を提唱し、心をふしんして教祖にお喜びいただこうと誓った。心のふしんの進むにつれて形の普請も進み、形の普請にひのきしんの真実を伏せ込むうちに、心のふしんも一段と進む。ともに末代つづくきりなしふしんである。

おふでさきに、

しんぢつにたすけ一ぢよの心なら

なにゆハいでもしかとうけとる 三38

と教えられる。

一言のにをいがけは、人の運命を変える。それは、をやの声を聞く時、心の向きが変わるからである。一度のおたすけは、人の心を入れ替え、無い命をもお救けいただく。それは、をやの理を受けるからである。かくて心のふしんは、一人また一人と進み、世界一れつに及ぶ。これぞ、世界のふしんである。

みかぐらうたに、

九ツ ここまでついてこい

十ド とりめがさだまりた 一下り目

九ツ こころをさだめゐやうなら

十ド ところのをさまりや 二下り目

と教えられている。

教祖百年祭のまたとない旬を迎え、にをいがけ・おたすけに丹精して、教祖の親心を、長く末代に伝え、広く世界に弘めて、世界一れつの心のふしんを進めよう。日日に教祖のひながたをたどり、たすけ一条の真実を積み重ねよう。

にをいがけ・おたすけこそ、我我の生命であり、至上の使命である。この使命達成の上に、とりめが定まり、ところの治まる陽気ぐらしを御守護いただける。

ここに全教一手一つの奮起を要望する。

昭和五十六年一月二十六日 真柱 中山 善衛

諭達第二号 昭和四十八年一月二十六日 中山 善衛

諭達第二号

教祖九十年祭を迎えるに当たり、思うところを述べて、三年千日の門出の心定めに資したい。

教祖は、月日のやしろとして親神の思召を伝え、たすけ一條のため、みずから艱難苦労の中を喜び勇んで通り抜け、万人たすかるひながたを示された。しかも、子供の成人を急き込む上から、定命を二十五年縮めて現身をかくされ、今なお存命のまま、日夜、世界たすけのためにお働き下されている。この親心に応え、喜びに溢れてひながたを実践し、たすけ一條に励んで成人の実を挙げ、教祖にお喜びいただくことこそ、年祭を迎える道の子供の願いである。

教祖は、たすけ一条の道として、つとめを教えられた。

にち/\にはやくつとめをせきこめよ

いかなるなんもみなのがれるで  一〇 19

とのようふなむつかしくなるやまいでも

つとめ一ぢよてみなたすかるで  一〇 20

つとめは、人間世界創造の奇しき守護を、よろづたすけの上にお見せいただく、根本の道である。教祖五十年の道すがらは、このつとめの急き込みにほかならない。教祖年祭の元一日もまた、ここに由来する。仰せ通りのつとめをするという一事に、幾多の苦心が払われて来た道の歴史に照らす時、有難い今日の道である。感謝の真心を捧げつつ、一手一つ、つとめに徹する姿を以て、親心に応え奉らねばならない。

思えば、教会の初まりは、つとめ一条の実現を心に定めて、許されたものである。ぢばの理をうけて、真剣なつとめに、勇み心の真実を捧げ、陽気世界実現の守護を祈念するのが、教会の使命である。かくてこそ、たすけの理をいただいて名称の理は発揚され、教会内容はおのずと充実して来る。心定めを果たすという一点に心を尽し、仕切ってその達成を志すのが時旬の急務である。鳴物なりと出しかけよ、とのお言葉を拝し、道具の完備を急いで来たが、人を寄せ手を揃えることは、つとめ完成の上に欠くことのできぬ要であり、教祖の終始心をおかけ下されたところである。教祖は、さづけを渡しよふぼくを育てて、人々の成人を促しつつ、つとめの模様立てを進められた。

これからハいたみなやみもてきものも

いきてをどりでみなたすけるで 六106

さづけの理は、今広く我々にも許されている。しかも、親神は、常に先回りしてお待ち下されている。ひたすら、親に凭れて足を運び、真心こめて理を取り次ぐ時、不思議なたすけをお見せ下される。まことに心強い限りである。よふぼくたるものは、このことを心に刻み、挙ってさづけの取り次ぎに勇み、おかけいただく大いなる期待に応え奉らんことを切望する。さづけを取り次ぎ、たすけ一条に励む時、心のほこりはおのずから払われて、陽気づくめの心と入れ替わり、人の心は成人する。成人は、理の御用を通してこそ、果たされる。

成人とは、日々年々、親の思いに近づくことである。それは、不断の着実な歩みの中から、旬に芽生え実を結ぶ。教祖の年祭を旬として、心のふしんを形のふしんに託し、仕切って成人を願って来たのも、この故にほかならない。おやさとふしんは、教祖の御理想を体して、誓って勇躍した心のふしんであり、父祖の信仰と切なる願いがこめられている。

これを継承して、倍する努力を続けることが、心の成人をお見せいただく道であり、ひいては、その真実は、縦の伝道をも招来する。

みかぐらうたに、

九ツ こ々までついてこい

十ド とりめがさだまりた  一下り目

と教えられる。とりめが定まるとは、まさに、末代続く陽気ぐらしの世界である。その守護は、ここまでついて来い、と手引かれる親神の導きに、心を定めてついて行く時いただける。成って来る理に耳をすまし、教祖の面影を求めて身近に教祖を拝し、三年千日、ひながたの道を明るく歩み抜かせていただきたい。

世界は、我が身思案に流れて扶け合う喜びを忘れ、苦悩と混乱にあえいでいる。一日早く親神の慈愛に導かれたお互いは、その喜びを深く味わい、たすけ一条の実践を以て、たすける理がたすかる、天の理を人々に伝え、

せかいぢういちれつわみなきよたいや

たにんとゆうわさらにないぞや 一三43

とのお言葉通り、世界の兄弟が互いに睦み合う、陽気ぐらしの世の様をお見せいただけるよう、年祭活動の第一歩を踏み出すに当たり、決意を新たにするものである。

ここに信念を披歴して、全教の奮起を促し、親神の守護、教祖の導きを願い奉る。

昭和四十八年一月二十六日 真柱 中山 善衛

諭達第一号 昭和四十三年十月二十五日 中山善衛

諭達第一号

本日、真柱敬称奉告祭を執り行い、立教の元一日に思いを馳せ、教祖ひながたにかえり、たすけ一條の新たな門出を誓うことは、まことに意義深いことである。

思えば、旬刻限の到来と共に、教祖を、神のやしろに差し上げます、と誓った心定めにより、我々人類は初めて親神の御声を耳にし、真に救かる道を教えていただいた。神一條の心定めこそ、たすけの理をいただく根本である。

月日のやしろと定まり給うた教祖は、親神のたすけ一條の親心を、口に伝え筆に誌し、更には、ひながたに示して人々を導かれたが、このひながたこそ、神一條の精神、ひのきしんの態度の如実の発露である。我々が教祖お一人に心を結び、ひながたを素直に辿る時、一手一つの和は自ずから生まれ、願う三信條は具現される。

常にひのきしんに励み、教祖のお心一つに睦む時、成程の理を世に映し、たすけ一條のにをいがけは、無言の中にも進められる。

神一條の行動は、人間思案の窓を通して眺める時、時には常識外れと嘲笑されることもある。しかし、教祖のひながたに照らして考える時、ふしを通してこそ、大きな芽を吹く素地は耕される。教祖は苦労を苦労と思召さず、ふしから芽が出る、と、いそいそとたすけ一條に歩み続けられ、今日の道をおつけ下された。如何なふしの中も心倒さず、明るく神一條を貫き通すところに、必ず道が開ける証しをお見せいただいた。真実の伏せ込みを通してのみ、明るい守護はいただける。

やまさかやいばらぐろふもがけみちも

つるぎのなかもとふりぬけたら 一 47

まだみへるひのなかもありふちなかも

それをこしたらほそいみちあり 一 48

ほそみちをだん々々こせばをふみちや

これがたしかなほんみちである 一 49

このはなしほかの事でわないほとに

神一ぢよでこれわが事 一 50

と、神一條の道を進む者の心構えをお教えいただいている。神一條に進む時、親神は必ず不思議なたすけをお見せ下される。蒔いた種なら、旬を見て必ず生やして下される。

存命の教祖は、常に原典を通して、親しく語りかけて下さっている。まことに有難いことと言わねばならない。この篤い親心を感謝しつつ、日々教えを求めて心のふしんに励み、身に溢れる成程の理を世に映して、出でては、親神の教えを世界に伝えるたすけ一條に励み、入りては、真実の限りを尽して縦の伝道にいそしんでこそ、教祖の親心に応えさしていただける。これが我々の使命である。たすけ一條の尊き使命に感じ、明るく前進を続ける歩みの中に、親神もお

勇み下され、自由自在の守護をお見せ下される。

これからハをくハんみちをつけかける

せかいの心みないさめるで ニ  1

親神は、世界一列陽氣ぐらしの往還道をつけかけ、世界の心をみな勇ます、とて、早くから先回りをして、お待ち下されている。現下の世界の情勢を眺める時、世界はだめの教えを希求している。対立抗争に喘ぐ世界を救けるのは、この人間世界を創造せられた親神の教えを措いて外にはない。旬は満ちている。

存命の教祖の手足として、その思召を伝えるのがよふぼくの使命である。教祖の道具衆と教えられたよふぼくは、この使命を体して、ひながたを辿りたすけ一條に生きることが、教祖にお喜びいただく唯一の道である。よふぼくも信者も一つ心に、ひながたを慕うて、神一條の道を楽しんで歩み続け、実があれば実があるで、とのお言葉通り、更にたのもしい将来の往還道へとお導きいただけるよう、教内全般の奮起を願ってやまない。

ここに門出に当り、真実を捧げて親神の末永き守護を願い奉る。

昭和四十三年十月二十五日 真柱  中山 善衛