教祖殿逸話篇

181.教祖の茶碗

181.教祖の茶碗 「教祖のお使いになった茶碗の中には、欠けたのを接いだのがあった。私は、茶碗を見た。模様ものの普通の茶碗に、錦手の瀬戸物で接いであった。これは、本部の宝や。これを見たら、後の者は贅沢出来ん。 お皿でも、教祖のお使いになったものの中には、接いだものがあった。」と。これは、梶本楢治郎の懐旧談である。

182.元の屋敷

182.元の屋敷 大和国笠間村の大浦伝七妻なかは、急に人差指に激しい痛みを感じ、その痛みがなかなか治まらないので、近所の加見兵四郎に願うてもろうたところ、痛みは止まった。が、しばらくすると、又痛み出し、お願いしてもらうと、止まった。こういう事を、三、四度も繰り返した後、加見が、「おぢばへ帰って、教祖にお願い致しましょう。」と言うたの

183.悪風というものは

183.悪風というものは 明治十八、九年頃のこと。お道がドンドン弘まり始めると共に、僧侶、神職その他、世間の反対攻撃もまた次第に猛烈になって来た。信心している人々の中にも、それ等の反対に辛抱し切れなくなって、こちらからも積極的に抗争しては、と言う者も出て来た。その時、摂津国喜連村の林九右衞門という講元が、おぢばへ帰って、このことを相

184.悟り方

184.悟り方 明治十九年二月六日(陰暦正月三日)、お屋敷へ帰らせて頂いていた梅谷四郎兵衞のもとへ、家から、かねて身上中の二女みちゑがなくなったという報せが届いた。教祖にお目通りした時、話のついでに、その事を申し上げると、教祖は、 「それは結構やなあ。」と、仰せられた。 梅谷は、教祖が、何かお聞き違いなされたのだろうと思ったので、

185.どこい働きに

185.どこい働きに 明治十九年三月十二日(陰暦二月七日)、山中忠七と山田伊八郎が、同道でお屋敷へ帰らせて頂いた。 教祖は、櫟本の警察分署からお帰りなされて以来、連日お寝みになっている事が多かったが、この時、二人が帰らせて頂いた旨申し上げると、お言葉を下された。 「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの

186.結構なものを

186.結構なものを 明治十九年三月中頃、入信後間もない中西金次郎は、泉田藤吉に伴われて、初めておぢばへ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。 教祖は、お寝みになっていたが、「天恵四番、泉田藤吉の信徒、中西金次郎が帰って参りました。」と取次いで頂くと、直ぐ、 「はい、はい。」と、お声がして、お出まし下された。 同年八月十七日に帰った

187.ぢば一つに

187.ぢば一つに 明治十九年六月、諸井国三郎は、四女秀が三才で出直した時、余り悲しかったので、おぢばへ帰って、「何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい。」とお願いしたところ、教祖は、 「さあ/\小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、

188.屋敷の常詰

188.屋敷の常詰 明治十九年八月二十五日(陰暦七月二十六日)の昼のこと、奈良警察署の署長と名乗る、背の低いズングリ太った男が、お屋敷へ訪ねて来た。そして、教祖にお目にかかって、かえって行った。 その夜、お屋敷の門を、破れんばかりにたたく者があるので、飯降よしゑが、「どなたか。」と、尋ねると、「昼来た奈良署長やが、一寸門を開けてく

189夫婦の心

189夫婦の心 平野楢蔵が、明治十九年夏、布教のため、家業を廃して谷底を通っている時に、夫婦とも心を定め、「教祖のことを思えば、我々、三日や五日食べずにいるとも、いとわぬ。」と決心して、夏のことであったので、平野は、単衣一枚に浴衣一枚、妻のトラは、浴衣一枚ぎりになって、おたすけに廻わっていた。 その頃、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が

190.この道は

190.この道は 明治十九年夏、松村吉太郎がお屋敷へ帰らせていただいたときのこと。多少学問の素養などもあった松村の目には、当時、お屋敷へ寄り集う人々の中に見受けられる無学さや、余りにも粗野な振る舞いなどが、異様に思われ、軽侮の念すら感じていた。ある時、教祖にお目通りすると、教祖は、「この道は、知恵学問の道やない。来る者に来なとは言わ