20年後のラブレター

20年後のラブレター              岡山県在住  山﨑 石根 6月の初旬、妻から私宛てのハガキが届きました。ところが、その郵便を受け取った妻自身が、「あれ?何で私から手紙が届いてるんやろう?」と、心当たりがないようなのです。 よく見ると、宛名が市町村合併以前の住所になっています。そして丁寧に、「市町村合併で住所が変わるかもしれないので、その場合は天理教の教会に連絡してください」との注意書きと共に、教会の電話番号まで書かれていました。 二人で不思議がりながら通信面に目をやると、20年前の日付けと「20年先へのメッセージ」というタイトルの下に、妻の直筆の文章が書かれているではありませんか。 何と、当時29歳の妻から、20年後の私に宛てたラブレターだったのです。この年に天理市の事業として、タイムカプセルに手紙を入れるイベントがあったようで、その時に妻が出した手紙がこの時届いたのです。 「サッキー、今、元気ですか? 今、幸せですか? 私たちは互いにたすけ合って、補い合って、思いやりのある夫婦でいられてるでしょうか?あの頃の私は不足がちの毎日を通っていましたが、サッキーの優しい言葉や周りの人からの神様のお話しで、心に潤いを与えてもらいました。今の私は、逆にサッキーや周りの方々に返せているでしょうか?」 私は結婚当初、妻からサッキーと呼ばれていたのですが、その頃の彼女は、20年後もきちんと夫婦でいられているか、教会で生活をしているのか、子どもを授かっているのか。現在の私たちの様子は全く想像もつかなかったはずです。 そんな新婚ホヤホヤの若い妻からの20年越しの問いかけに、私は少し照れながら、「元気でたすけ合っているよ」と呟き、現在の彼女に「十分すぎるぐらい返してもらってるよ」と伝えました。 20年前の6月13日、私たちは天理市にある教会本部の教祖殿にて結婚式を挙げました。ご縁のあった教会本部の先生に主礼を務めて頂き、夫婦の固めの盃を頂戴しました。 今年の結婚記念日には、挙式の時に読み上げて頂いた祝詞を20年ぶりに取り出し、改めて二人で読んでみたのですが、その中の次のような内容が目に留まりました。 「未だ二人は至らぬ勝ちではございますが、今より後は互いに変わることなく、千代の契りを結び、常に教祖のひながたを心に湛えて、如何なる中も一つ心に睦び合い扶け合いつゝ日々晴れやかに心陽気につとめさせて頂く覚悟でございます」 折りしも20年前の妻からの「たすけ合っているか」との問いかけも相まって、「ああ、結婚とはこういうことなんだなあ」と改めて私は感じ入ったのです。 このように手紙であったり、祝詞もそうですが、実際に書いた文字を読み返したり手に取ることが出来ると、嬉しさも一入です。 この20年間で世の中は目まぐるしく進展し、スマートフォンやタブレットの普及により情報伝達のスピードは格段に上がりました。そのような、老若男女を問わずSNSを利用する時代になったからこそ、誰かが自筆の文字に認めてくれた想いが、一層嬉しく感じるのでしょう。 天理教の教祖「おやさま」は、ご在世中に自ら筆を執って「おふでさき」というご神言を書き残されています。「おふでさき」は天理教の原典であり、私たちが常日頃から親しみ、拝読しているものですが、この教祖のお言葉にふれる度に、20年どころか、実際に教祖が書かれた140年以上前にタイムスリップして、教祖から直接メッセージを頂いているような心持ちになるのです。 そうして私も妻と同じように、神様のお言葉によって心に潤いを与えて頂いているとすれば、これを教祖からのラブレターだと表現するのは言い過ぎでしょうか。 さて、記念日から三日後の6月16日は、世に言う「父の日」でした。その日は一日御用で、夜帰宅したのですが、何だか子どもたちが慌ただしい様子です。どうやら中2の長女に急かされながら、小6の息子と小4の娘が慌てて手紙を書いているようです。 そして、私がお風呂から上がると、3人が「とと、いつもありがとう」と言いながら、父の日の手紙を渡してくれました。長女の心のこもった手紙に比べ、下の二人の手紙はどこか書かされた感が否めない内容でしたが、それでも父親としてこれほど嬉しいことはありません。末娘の手紙には、三回分の肩もみ券まで添えられていました。 さらに翌日の月曜日には、天理の高校で寮生活を送っている息子二人からも、父の日の手紙が送られてきました。 結婚記念日に何か美味しい料理を食べに行ったり、父の日に何か高価なプレゼントをもらったりした訳ではありませんが、妻と子どもたちから何にも代えがたい贈り物を受け取った私は本当に幸せ者だと、しみじみ思いました。 今のこの気持ちをずっと忘れずに、今回のこの原稿も20年後に家族で読み返すことができたなら、どんなに幸せだろうと、まだ見ぬ未来を思い描きます。「肩もみ券」は、それまで大事にとって置こうと思います。 だけど有難い  「火水風」 親神様のお働きを十分に頂戴する通り方とは、どのようなものでしょう。 親神様は、ご自身のお働きについて端的に「火、水、風」と教えられます。それぞれ、どんなものか見てみましょう。 まず「火」。私たちは太陽の光や熱、温みなしに生きていくことはできません。そして「水」。地表の70%は水、私たちの体の70%も水で出来ています。 「火」は太陽、「水」は月。最近の研究で、月には、かなりの量の水が存在すると言われるようになりました。そしてまた、月は地球の生命にとってなくてはならないものであることが、あらためて分かってきました。 地球は自転と公転を続けています。もし月の引力がなかったら、これらの運動が不規則になり、地球環境はとてつもなく厳しいものになるというのです。地球に生命が誕生するには、太陽と地球が、ちょうどいまの距離になければならなかったということは、よく知られています。その確率も相当に低いわけですが、加えて月の存在なしに、現在の地球環境は成り立たないのだそうです。この宇宙のなかで、宝石のような地球の存在、それは太陽と月があるおかげなのです。 潮の満ち引きも、月の引力によるものです。海岸で見られるあの潮の満ち引きは、私たちの体のなかの満ち引きでもあります。人間の誕生や出直しの時期は、私たちの体と月の運行に深い関わりがあるといいます。 「火」と「水」、温みと水気の調和のおかげで、私たちは生きていくことができます。世界の平均気温が数度上がれば地球は砂漠化します。逆に下がれば氷河期がやって来ます。気温にすれば、わずか数度の違いです。同じように、私たちのこの体も、体温が三六度前後で一定しているから生きていけるのです。数度上がっても下がっても、たちまち動けなくなってしまいます。 そして、もう一つのお働きが「風」です。これは、大気や空気のことです。大気や空気は目に見えないので、その存在になかなか気づきません。それを、教祖は「風」と教えてくださいました。なるほど、見えなくても、空気が動いて風になると頬に感じるし、旗ははためきます。見えない姿が動く風になって、私たちに見えるのです。この空気、大気がなくなると、私たちは生きていけません。動物は酸素を吸って二酸化炭素を出し、植物は二酸化炭素を吸って酸素を出しています。大気というものがなかったなら、地球上の生命は存在できません。 「火、水、風」は、まさに親神様の肝心要のお働きです。では、この親神様のご守護をいっぱい頂戴するためには、どんな通り方をしたらいいのか。この道の先人先輩は、こんな悟り方をしました。それは、「火、水、風」のような心で通らせていただくということです。 まず「火」とは、どんなものでしょうか。昔は暖炉の火や囲炉裏の火がありました。火は、私たちに光と温みをたっぷりと与えてくれます。そのおかげで食事を作ることもできます。しかし、火が燃え尽きると、灰になります。蝋燭の火でいえば、最後まで周りを照らして自分は消えてなくなるのです。 「水」はどうでしょう。水は低い所へ流れていって、しかも周りの汚れを取っていく働きをします。「風」もなくてはならないものですが、私たちの目には見えません。見えないけれど、大切な陰の働きをしているのです。 火のような姿とは、周りを温め、輝かせ、そして自分は消えていくような働き方。水のような姿とは、低い心で、人の汚れを自分が被るような通り方。風のような姿とは、大切な仕事をしながらも自己主張をしない陰のつとめ方。こうした「火、水、風」のような心の姿勢で私たちが通れば、間違いなく、親神様のお働きを十分に受けることができると思います。 (終)

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