おさづけは世界共通

おさづけは世界共通 タイ在住  野口 信也 私は22歳の時にタイへ留学に出させてもらいましたが、一か月を過ぎた頃、父が倒れたとの連絡があり、日本へ一時帰国しました。そうした節もあり、再びタイへ戻る時、「もし、病気の方がおられるのを見たり聞いたりしたら、すぐに病の平癒を願うおさづけを取り次ぐ」と心に決めました。 私は天理で育ちましたので、周りは天理教の方ばかりです。そんな、いつでもおさづけを取り次げる環境が、かえって二の足を踏んでしまう原因ともなり、取り次ぐ機会を逃すことがよくありました。でも、タイでは私が躊躇してしまえば、その方は一生おさづけを取り次がれる機会を失ってしまう。当時の私は、若いなりにそんなことを考えていました。 タイに戻り、再度タイ語学校へ通い始めました。数日後、クラスメイトが欠席したので、理由を聞くと、お子さんが腕の骨を折ってしまったとのこと。早速、お子さんが入院しているクリスチャン病院へお見舞いに行きました。 そして、付き添っているクラスメイトに、息子さんにおさづけを取り次がせて頂きたいとお願いしましたが、「私はクリスチャンで洗礼を受けているので、受けることができません」とのお返事でした。 しかし、病人さんには必ずおさづけを取り次ぐと、親神様、教祖に約束をしていますから、手ぶらでは帰れません。なので、同室に入院しているタイ人の子供たちに取り次ごうと、親御さんにたどたどしいタイ語で天理教について説明し、何とか取り次がせてもらいました。 その後、毎日学校帰りにその病院におさづけを取り次ぐために通いましたが、ある日突然、「ここはキリスト教の病院です。勝手なことはしないでください」と看護師に言われ、そこでの取り次ぎはできなくなってしまいました。 そんなある日のこと、タイ在住の信者さん方が団体でおぢばがえりをするので、空港へ見送りに行きました。現地で布教している方々と一緒に皆さんを見送った後、出迎えの用もあった私は、一人空港に残りロビーで待機していました。 すると、少し離れた所が騒がしくなり、人だかりが出来ました。どうやら女の子が倒れたようで、そばにいた大柄な西洋人の男性が彼女を抱えて椅子に寝かせました。 私は正直、「あ、しまった。見てしまった」と思いました。病気の方を見たら必ずおさづけを取り次ぐと心に決めていたものの、なかなか勇気が出ません。布教師の皆さんも帰った後で、この大きな空港の人だかりの中で、天理教の信者は私一人かも知れない状況です。 色々考えをめぐらせた挙げ句、「よし、氷でも持って行って、もし症状が良くなったら、今日はおさづけはやめておこう」と心に決め、近くにあったお店で氷をもらい、恐る恐る持って行きました。しかし、女の子の症状は良くなるどころか「頭が痛い」と涙を流し、とうとう痙攣まで起こしてしまいました。 「こうなったら仕方ない」。私は周りにいたその子の友達に、「私は天理教という宗教を信仰するものですが…」とタイ語で話しかけました。すると、一人の男の子から「関係ない奴はあっちへ行け!」と言われ、その態度にカチンと来てしまい、気がつけば「いえ、私はこの子をたすけますから」と勢いよく答えていました。 そして、半ば強引に倒れている子の前に進み出て、柏手を二回打ち、おさづけの取り次ぎを始めました。 ただ、こんな人の大勢いる場所で取り次いだ経験がなかったので、緊張で気が動転していて、何度手を振って、何度神名を唱えたのか、まったく覚えていません。それでも何とか取り次ぎを終え、柏手を二回叩くと、次の瞬間、ひどい痙攣をしていたその子が、ガバッと上半身を起こし、頭をポンポン叩きながら、ケロッとして「あー、頭痛かったあ」と言ったのです。 私は何が起きたか分からず、「良かったですね」と言うのが精一杯でしたが、周りで見ていた友達が、「お兄さん、ありがとう、ありがとう」と、合掌をしながら次々にお礼を言ってくれました。 数分後、空港のスタッフがやって来て、念のためと言って、起き上がった彼女を医務室へ連れて行きました。私はホッとして、出迎えの飛行機の到着までまだ時間があるので、コーヒーでも飲もうかと歩き始めました。 そこで、ふと視線を感じ周りを見ると、おさづけを取り次ぐ様子を見ていた大勢の人が、「こいつは何者だ」という感じで、こちらをジーッと見ているのです。何とも言えず、いい気分でした。 大きな空港に、様々な国籍や職業を持ち、信仰する宗教も違う大勢の方がおられたはずです。しかし、私が居合わせたその日、その場所でその女性を苦しみから救うことが出来たのは、唯一、天理教を信仰する私たちが教えて頂いている〝おさづけ〟だったのです。 親神様、教祖とお約束をすると、その決心を試されるような状況に出会うことがあります。私は急な場面に遭遇し、一旦は逃げ出しそうになりましたが、何とか自分の都合を捨てて、親神様、教祖とのお約束を守ることができ、そこに鮮やかなご守護をお見せ頂きました。 本当にもったいない、有難い出来事で、その後の私の信仰生活において、大きな一歩であったと思います。 戦いを治める 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、「みかぐらうた」の二下り目で、 「四ッ よなほり」 「六ッ むほんのねえをきらふ」 「十デ ところのをさまりや」 と教えられています。 世直りとは、この世界を陽気ぐらしへと建て替えること。謀反とは主君に背くことや、広く対立や抗争を意味しており、所の治まりとは、人間社会の場の治まりと解されるでしょう。 この二下り目は冒頭で、「とん/\とんと正月をどりはじめハ やれおもしろい」と、足取りも軽やかにおつとめをつとめる楽しさが歌われています。つまり、二下り目全体を通して、おつとめによって世の対立の治まりを願い、世界平和の実現に向かうべきことを教えられているのです。 明治十年、国内最後の内戦と言われる「西南戦争」が勃発した頃、教祖は直筆による「おふでさき」で、争いを治める道筋を次のようなお歌で示されました。   せかいぢういちれつわみなきよたいや  たにんとゆうわさらにないぞや (十三 43)   このもとをしりたるものハないのでな  それが月日のざねんばかりや (十三 44)   高山にくらしているもたにそこに  くらしているもをなしたまひい (十三 45)   それよりもたん/\つかうどふぐわな  みな月日よりかしものなるぞ (十三 46 )   それしらすみなにんけんの心でわ  なんどたかびくあるとをもふて (十三 47)   月日にハこのしんぢつをせかいぢうへ  どふぞしいかりしよちさしたい (十三 48)   これさいかたしかにしよちしたならば  むほんのねへわきれてしまうに (十三 49)   月日よりしんぢつをもう高山の  たゝかいさいかをさめたるなら (十三 50)   このもよふどふしたならばをさまろふ  よふきづとめにでたる事なら (十三 51) 世界中の人間は皆きょうだいであり、それぞれの身体は皆神のかしものであるのに、人々はその真実を知らず、なにか人間に高い低いの分け隔てがあると思っている。神は一れつきょうだいという真実をはっきりと知らせたいのだ。そして皆がこれを知ったならば、必ずや争いの根は切れてしまうだろう。神は上に立つ者の戦いを治めることを切に願っているのだが、そのためには早く陽気づとめに取り掛からなければならない。 このように、世界の治まり、世界平和実現という救済過程の中で、おつとめが持つ重要な意義をお示しくだされています。 (終)

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