おやつのポシェット

おやつのポシェット 兵庫県在住  旭 和世 今年の元旦、能登半島で信じがたいような災害が起こり、一変した街の様子が報道を通して伝わってきました。 私が住んでいる神戸の街も、29年前の1月17日、大地震に襲われました。嫁ぎ先の教会は新神戸駅近くにあり、当時の避難生活の話をよく聞かせてもらいます。誰も予想だにしなかった天変地異に、成すすべもなく、日常がどれだけ有難いものだったのかを思い知らされた。そして、変わり果てた景色の中で、必死にたすけ合って復興への道のりを歩んできた。皆さん口々にそう話してくださいます。 神戸市の小学校では、年が明け、1月17日が近づくと「しあわせ運べるように」という歌を歌います。神戸の街の復興を願うこの歌を、子供たちが初めて聞かせてくれた時、私は涙が止まりませんでした。 親しんだ街並みが一瞬にして消え去り、切なくて、悲しくて、倒れそうな心を何とか奮い立たせている情景が目に浮かぶような歌なのです。 私は特に「届けたい わたしたちの歌 しあわせ運べるように」という最後の歌詞にいつも感動します。「しあわせを運びたい」という、辛い思いをした人たち自らが発する前向きなメッセージに心を打たれるのです。 神様のお言葉に、「人たすけたら我が身たすかる」とあります。このお言葉は、「自分がたすかりたいから人をたすける」という意味ではなく、人のたすかりや幸せを願う心を持つことが、何より自分がたすかっていく姿だと教えられているのです。そんな神様がお望みくださっている「人のたすかりを願う心」が、この歌から伝わってきました。 私どもがお預かりする教会では、「こども食堂」や「学習支援」を行っています。その活動を通してつながった地域の方から、「子供たちに震災のことを伝えたい」との声があがり、ある日のこども食堂で、神戸で被災された時のお話をして頂きました。 そして、お話のあと、参加してくれた子供たちと一緒に、被災した能登の子供たちに届ける「おやつのポシェット」を作りました。 被災地には、命に直結しないおやつなどは中々届きにくく、「あめ玉一つあったら、きっと子供たちは笑顔になれるだろう」という被災経験から生まれた取り組みで、何種類かのお菓子を詰めたポシェットをたくさん作り、それに応援メッセージを添えました。 すると、そのポシェットが現地の避難所に届いた翌日、私のケータイに一本の電話がかかってきました。 「昨日、能登市でおやつを頂いた子供の父親です。子供がとても喜んでいるので、ひと言お礼が言いたくてお電話しました」。 そのお父さんは、「みそらこども食堂」からの支援だと聞き、インターネットで調べて電話をくださったのです。 私がびっくりして声も出さずにいると、お父さんに続いて、「お菓子ありがとう!」と、お子さんが直接お礼を言ってくれるではないですか。私は急なことで慌てましたが、「神戸もね、大きな地震があって大変だったけど、みんながたすけ合って元気になれたのよ。能登もいま大変だと思うけど、たすけ合ってがんばろうね!お電話ありがとうね!」と伝えることができました。 このお電話を頂いて、神戸のみんなの真実が能登の子供たちに伝わったんだという喜びがあふれてきました。そして、こんなに喜んでくださるなら、継続的な支援として続けられたらいいなと思いました。 しかし、被災地の様子は刻々と変わっていきます。避難所ではまだまだ帰宅できない方も大勢おられますが、子供は二次避難をしているため、人数は減っていると聞きました。 その子供たちに、どうすれば継続的にポシェットを届けられるかと思案していると、ある方から、珠洲市で自ら被災しながらも、地域支援のために活動されている「メルヘン日進堂」という和洋菓子店を紹介されました。 そのお店では、被災された方たちの憩いの場として「たすけ愛カフェ」を開設していて、その方いわく「そこの社長さんだったら、『おやつのポシェット』をカフェに置いてくださると思うよ!」とのことでした。 そのお店の支援活動については、今年3月の『天理時報』に大きく取り上げられていたので、こんな素晴らしい活動をされている真実の方がいるのかと、私も感動と勇み心を頂いていました。 さっそく連絡してみると、お店の再開準備で忙しい中を快く引き受けてくださり、ポシェットを店内に置いて頂けることになりました。 こうして、神戸の子供たちが心をこめて作った「おやつのポシェット」と応援メッセージは、メルヘン日進堂さんのステキなお店を窓口にして、地域の子供たちに届けられています。 このようなめぐり合わせを頂けたことが本当に有難く、親神様、教祖に心から感謝申し上げています。 天理教の教祖「おやさま」は、ひと房のぶどうを手にとって、小さな男の子に仰いました。 「世界は、この葡萄のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで」と。 この度のご縁が、このお言葉を思い出させてくれました。人と人とがみんな、まあるい心でつながる事で、笑顔が生まれ、心が温かくなり、力が湧いてくるのです。 これからも、被災地の一日も早い復興と人々の心の安寧を願い、小さな取り組みではありますが、心をつなげていきたいと思っています。 おふでさき 天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」は、天理教の原典の中で最も重要なものであり、教えの根幹をなすものです。   このよふハりいでせめたるせかいなり  なにかよろづを歌のりでせめ (一 21)   せめるとててざしするでハないほどに  くちでもゆハんふでさきのせめ (一 22)   なにもかもちがハん事ハよけれども  ちがいあるなら歌でしらする (一 23) 「理でせめたる世界」は、理詰めと解釈できるでしょう。この世は理詰めの世界である。その理合いについては、全て歌でもって説いていく。決して手で指し示したり、また、口で言うのでもない。筆先をもって教え諭すのだ。そして、何か通り方に間違いがある場合にも、それは歌によって知らせていく。 ここに、教祖の深い親心が感じられます。直接口に出して間違いを指摘されれば、あまり面白くないと感じる人もいるでしょう。そこで、自ら悟っていけるように話を進めてくださるのです。しかも普通の文章、いわゆる散文ではなく、歌で示すことによって、わずかな字数の中から深い意味合いを感じ取れるようにお計らいくださっています。ゆえに、   だん/\とふてにしらしてあるほどに  はやく心にさとりとるよふ (四 72)   これさいかはやくさとりがついたなら  みのうちなやみすゞやかになる (四 73) このような、神の思いを自ら悟ってくれ、とのお歌も多いのです。 しかし、この親心が分からない人間の側からすれば、そんなにじれったいことをせずに、そのものズバリを言ってくれたほうが分かりやすいのに、との思いが拭えないのです。 そこで、「言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという」とのお言葉を噛みしめなければなりません。「言わん言えんの理」つまり、神様の口からああせい、こうせいと言われてから行動に移すようでは、鮮やかなご守護は頂けないのです。 「おふでさき」全1711首の最後は、   これをはな一れつ心しやんたのむで (一七 75) とのお歌で締めくくられています。教祖は、私たちにどこまでも、自ら思案し、神の思いを悟ることを強く望んでおられるのです。 (終)

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