天理教の教のおつとめの第一節は21回繰り返します。
この21回繰り返す理由は諸説あり、ここでさっくり紹介します。
おつとめは信者の生活の中で欠かせないものです。毎日行っていてもなぜ21回するのか?
考えたことがあるのではないでしょうか?
おつとめの順序や回数について
第一節「あしきはらひたすけ~」が教えられた当初は、回数は定まっておらず、拍子木を打ちながら、ただ一心に、ひたすら親神様への祈念を繰り返していたようです。
「ちよとはなし」を教示の後、第一節と、この第二節を併せて勤められたものか、それも定かではないそうです。
また、「ちよとはなし」は、かぐらづとめとして教えられたのか、日々のおつとめは、第一節のみが勤められたのか、こうした点についても不明だそうです。
慶応三年に教えられた「六下り目 5」には、「いつもかぐらやてをどりや」と、すでに、かぐらづとめについて触れられています。
明治二年から執筆の「おふでさき」、六年のかんろだいの模型製作へと、つとめの段取りは進められていきました。
そして、七年には、かぐら面をお迎えに出向き、「夜神楽本勤」が行われています。
しかしこの時点で、第三節の教示はなされていません。
明治八年になってつとめの歌と手振りが一通りそろいました。
こうした一連の流れの中で、かぐらづとめの体裁が整えられ、回数が限定されたのではないかと推測されています。
また、第三節とともに教えられた「十一通りのつとめ」から、第一節の回数が定まったとも考えられます。
なぜおつとめの第一節は21回繰り返す?
第一節は、二十一回繰り返して勤められます。
まず第一節と第三節にかかわる回数の理合いについて注目してみます。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』「一七三 皆、吉い日やで」には、教祖から教えられた一日から三十一日までの、理合いが簡潔にまとめられています。
その中で「二十一日 十ぶんたっぷりはじまる」とある。
高井猶吉の口述記には、
「二十一日は、また十分たっぷりはじまる、朝夕のおつとめの理。
二十一ぺんするのは、十分たっぷりはじまるという理をもって二十一ぺんおつとめするのである。決して数をとりまちがってはならん」(高井猶久編『教祖より聞きし話・高井猶吉』
「すべての物のはじまりについて」とあります。
ここで、解釈本の中で、回数やそれに関連する数の意義について記されている主なものを抜粋し(仮名遣いなど一部修正)、参考までに列記します。
序歌・だしについて
『御神楽歌述義 全』(中山新治郎著)「序歌」
「御神楽歌全部十二篇あり。世に之を十二下りと称す。而して此の序歌十一章は、十二篇の網領なり。十二下りに此の序歌あるは、譬えば猶、水に源頭あり樹に根幹あるがごとし。唯本書もと序歌の題称なし。而して今述義者此の題称を設けたるは、いか十二下りと区別せんとての便宜に出でたるのみ。読者此の意を諒せよ」『御神楽歌述義 全』の部分。
『正文遺韻』(諸井政一)「一寸咄萬世始」
「この年(明治三年)に『一寸咄し』と、『よろづよ』とを御聞かせ被下ましたので、『よろづよ』は、十二下りのだしと仰せられて、十二下りのはじめに、つとめる事になりました」
「『一寸咄』は、これから数年後に、かんろだいつとめのだしと、御聞かせ被下ましてござります。よって、かんろだいのおつとめには、一寸咄がさきへつくのであつて、しんじつ、手をどりさづけといふて、かんろだいをとなへて、さすつて被下処の、おさづけがござります。それにもやはり、一寸はなしをとなへて、それからかんろだいを三遍となへて、おさすり被下ます。かれこれ思ひましても、神様がだしと被仰る理は、けす事はできません」
いわゆる「一・三合一節」について
あしきはらいたすけたまい
いちれつすますかんろふだい
前記の歌は、「みかぐらうた」本の中に、数種見受けられます。
このお歌について、二代真柱は『続ひとことはなし その二』の中で、「第一節と第三節の合一されたお歌」と記されています。
これは、明治十四年の大阪天恵組発行『拾弐下り御勤之歌』という私刊本を唯一の資料としたもので、「第一節と第三節の古い形」としたうえで、明治十五年の“模様替え”の史実の結果、上の句、下の句へと分かれたとの見解を示されています。
あしきはらいたすけたまい
いちれつすますかんろふだい(一・三)
あしきをはらうてたすけたまへ
てんりわうのみこと(第一節)
あしきをはらうてたすけせきこむ
いちれつすましてかんろだい(第三節)
しかし、その後の研究から永尾廣海本部員は、「みかぐらうた本研究の諸問題について(上)」の論文の中で、新たな資料をもとに、私見を述べています。
それは、第一節は厳然と伝えられており、「第一第三合一節は、むしろ、第三節に替わって、信者によって一時期歌われたものであるかもしれない」と。
さらに、この「第一第三合一節」については、『天理教校論叢』20号に、「みかぐらうた研究における一つの問題―――第三合一節について―――」(澤井勇一著)があります。
各参考文献から調べる
堀越儀郎著『おかぐらの理』大正十二年
「三七の理」
「『あしきをはらうて』の勤めは二十一遍繰り返すのでありますが、あれは二十一遍繰り返すのではなく七遍ずつ三回繰り返すのであります」
「本部では甘露台の本勤めには『あしきをはらうてたすけせきこむ』の勤めも七遍ずつ三回すなわち二十一遍繰り返されるのであります。これは『三七の理』であります。
「十、十、たつぷり初まる理」
「三は大食天尊(たいしょくてん)、大戸辺尊(おおとのべ)、国狭土尊(くにさづち)の三柱の神様の理、『産』の理。人間の生まれることを意味する」
「三は三柱目の神様“つなぎ”、生を意味する。七は七柱目の神様の理、息の根を切る理で死を意味する。三七の理とは生まれるより死ぬまでの理、すなわち一生涯の理。三七の勤めとは一生涯の勤め全生涯を通じての永い絶えざる努力をあらわすもの」
「三かける七、『生』かける『死』の理で真剣命懸けのつとめの意。世間でも水業や苦業をして願をかける人は二十一日の日を切って願をかける。真剣の意を表す」
「三七は『つなぐ』『切る』の理。誠の道につないでもらって、ほこりや悪因縁を切ってもらう理」
「全てのものには表裏あるが双六の骸子の理をあらわす三七の理の勤めは悪しきを払ふの理」
「上述の様に色々と解釈がありますが、これはこうと云う風に沢山な説があると云うよりもこう云う様に深い色々の理が含まれて居ると考えた方がよいように思われます。」
安江明編『御神楽歌解釈』大正十四年
「二十一遍唱える理は、人間には二十一の悪しき節がある故に、この二十一節を取る為めに、悪しきを払うてを二十一遍唱えると云うなり」
柳井教正著『御神楽歌ニ就テ』昭和四年
「是を二十一遍唱える理は一つの悪しきの為に二十一ぺんの悪しきの事に就あやまりて通る。世界でも七度調べて人を疑えと云うて居ります。それを三遍繰り返せば二十一度になります」
「三九の理」
「此世で婚礼の時に三三九度の盃、人間の縁のつなぎ定め方、三遍々々九度の勤めは寿命つなぎの定め方、是に依って縁つなぎ寿命つなぎの事を悟って戴きたい」
桝井孝四郎著『みかぐら歌語り艸』昭和三十年
「十十たっぷり初まる理」
「二十一ぺんは七、三の理」
「七は七柱の神様、たいしよく天のみこと(切る理)。三は三柱の神様、くにさづちのみこと(つなぐ理)。“あしきを払う”で、切って、“たすけたまへ”で、つないでもらうの理である」
「三日三夜、三年三月、七里、七日の七、三の理」(元初まりの話)
「人間の心には二十一のあしきがある、それを払っていただくため」
「こうした理もあるであろうが、また、もっと、ほかに理があるかもしれない。親神様のお心、思わくは大きく計られないように」
21回のおつとめをする時の記念の仕方
21回のおつとめをする時、色々な記念の節があります。
参考程度にどうぞ。
十全の守護を祈念
ところで、十柱の神名を一柱ずつ祈念しながら、二十一回の手を振るという説も一部に伝えられています(図参照)。
まず、「くにとこたちのみこと」に始まって、「をもたりのみこと」「くにさづちのみこと」と進み、「いざなぎのみこと」「いざなみのみこと」と、一柱から十柱までの順序で数えます。
次に、「くにとこたちのみこと」から右回りに、「たいしよく天のみこと」「くもよみのみこと」「くにさづちのみこと」と進み「月よみのみこと」まで至ると、「いざなぎのみこと」「いざなみのみこと」で、二十回となります。
そして最後、二十一回目に親神天理王命を祈念するというものだそうです。
最初の10回は、①~⑩までを順に。次の10回は、①⑦⑤③②⑥⑧④⑨⑩の順で行う。最後の1回は、親神天理王命を祈念します。
8つのほこり+うそとついしょ
八つのほこりに、うそとついしょを加えると、10の数になります。
これを二回繰り返し、のこり一回数えるというものです。
- おしい
- ほしい
- にくい
- かわい
- うらみ
- はらだち
- よく
- こうまん
八つのほこりについてはコチラ
おつとめについて
おつとめの意味や意義ついてはコチラをどうぞ
おつとめの歴史ついてはコチラをどうぞ
おつとめの時間はこちら
また、みかぐらうたについてはコチラ
参考文献
かなり詳しく載っていて、とても勉強になります。