明治二十年三月二十日 夜九時
刻限御話明治二十年三月二十七日 午後七時
上原佐助願明治二十年五月十三日(陰暦四月二十一日)
増野正兵衞耳鳴るに付伺明治二十年七月十七日(陰暦五月二十七日)
増野正兵衞右の腹痛み伺明治二十年陰暦七月
清水与之助身の障りの願明治二十年十一月四日(陰暦九月十九日)
春野ゆう身上伺(増野正兵衞妻の母)明治二十年十二月八日(陰暦十月二十四日)午前八時
村田幸助身上事情に付願明治二十年
植田平一郎身上伺明治二十年十月十一日(陰暦八月二十五日)八時頃
林九右衞門五十八才(住吉郡喜連村)明治二十年十一月十七日 午前九時
西井徳重五十四才身上願(京都元斯道会周旋係)明治二十年十二月四日
植谷吉治郎五十八才身上願(元斯道会二十一号世話方)明治二十年十二月二十三日
深谷伺明治二十年
佃巳之吉三十一才身上願(池之嶋村)明治二十年
山本吉松二十才願(宇陀郡西山村世話係)明治二十年二月十七日(陰暦正月二十五日)夜
教祖の身上御障りに付、いかゞと飯降伊蔵により願明治二十年三月十六日(陰暦二月二十二日)午後三時
御諭明治二十年三月二十日(陰暦二月二十六日)夜十時
刻限御話明治二十年三月二十七日(陰暦三月三日)午後九時半
本席身上御障りに付御願明治二十年五月十四日(陰暦四月二十二日)午前九時
真之亮立合いにて、増野正兵衞身上障り伺明治二十年七月二十日(陰暦五月三十日)
増野正兵衞身上障り伺明治二十年九月十七日(陰暦八月朔日)
増野いと居所障り強く俄かに伺明治二十年十一月十三日(陰暦九月二十八日)
桝井りんおさづけさしづ明治二十年十二月十六日(陰暦十一月二日)朝
山田伊八郎伺明治二十年四月三日
檪の本にて大国屋へ清水梅谷両人おたすけの願明治二十年十月十五日
岩田ヒサ伺(郡山大工町)明治二十年十一月十八日(陰暦十月四日)
宇野善助五十二才願明治二十年十二月六日
宇野善助五十二才小人身上願明治二十年十二月三十日 午前九時
村田忠三郎明治二十年
佃巳之吉三十一才身上願明治二十年
山本吉松二十才願明治二十年二月十八日(陰暦正月二十六日)早朝
二十六日のおつとめに就きて御願明治二十年三月十六日(陰暦二月二十二日)午後八時
刻限御話明治二十年三月二十二日(陰暦二月二十八日)二時
刻限御話明治二十年三月二十七八日(陰暦三月三四日)頃
増野正兵衞身上障りに付伺明治二十年五月十六日(陰暦四月二十四日)
梅谷四郎兵衞おさづけ頂く明治二十年陰暦五月 午前八時
梅谷たね歯痛の願明治二十年九月十八日(陰暦八月二日)
増野正兵衞神戸へ帰る時身上障り伺明治二十年十一月十三日
梅谷秀太郎身上願明治二十年十二月十九日(陰暦十一月五日)
増野正兵衞咽喉腫れ食事通り兼ね咳出るに付伺明治二十年四月
山瀬文次郎伺明治二十年十月二十三日
大浦伝七長男武治郎六才八月十七日よりの腹痛治まらずに付おさしづ願明治二十年十一月十九日
深谷悦次郎三十五才願明治二十年十二月六日
宇野善助娘こん十八才願明治二十年
明石関助身上願明治二十年
西井徳重五十四才身上願明治二十年頃
中井宗助妻千代十七才去年目にほし入り伺(神戸市下山手通六丁目七十六番)明治二十年二月十八日(陰暦正月二十六日)午後
明治二十年一月九日(陰暦十二月十六日)より教祖身上一寸御障りつき、御やすみになり、同一月十八日(陰暦十二月二十五日)の夜よりおかぐらづとめ並びに十二下り始まり、二月十七日(陰暦正月二十五日)夜まで、毎夜おつとめあり、又二月十八日(陰暦正月二十六日)正午十二時より教祖の御身上迫りしに付、それよりかんろだいにておかぐらおつとめ、あとへ十二下りのてをどりあり。その時真之亮より詰合いの人々へ、だん/\御談示の上「おつとめの時、もし警察より如何なる干渉ありても、命捨てゝもという心の者のみおつとめせよ」と仰せあり。それより皆々心を十分定め、その用意して、おつとめに掛かりたる者、地方 泉田藤吉、平野楢蔵、神楽 真之亮、前川菊太郎、飯降政甚、山本利三郎、高井猶吉、桝井伊三郎、辻忠作、鴻田忠三郎、上田いそ、岡田与之助(宮森与三郎)、お手振り 清水与之助、山本利三郎、高井猶吉、桝井伊三郎、辻忠作、岡田与之助、鳴物 中山たまへ(琴)、飯降よしゑ(永尾)(三味線)、橋本清(つゞみ)の人々なり。家事取締の任に当りたる者、梅谷四郎兵衞、増野正兵衞、梶本松治郎にて、以上総人数十九人なり。おつとめは午後一時より始まり、二時に終る。右おつとめの終ると共に、教祖息を遊ばされずなる。それより内蔵の二階の中にて、飯降伊蔵により御伺あり。明治二十年三月十六日 午後十一時
刻限御話明治二十年三月二十二日(陰暦二月二十八日)夜三時
刻限御話明治二十年四月六日(陰暦三月十三日)
増野いと身上伺