天理教の数服(きょうふく)について

天理教の祭儀、儀式などに広く用いられている服装です。

教服は、朝夕のおつとめ、春秋霊祭、地鎮祭、起工式、信者宅祭儀、その他の祭儀・儀式など広範囲に用いられています。

天理ふしん社で購入することが出来ます。

男性と女性で少し変わっています。

男性は冠をかぶりますが、女性は冠は付けません。

天理教教服(男性)
ふしん社より
天理教教服(女性)
ふしん社より

天理教の数服(きょうふく)の歴史

大阪高麗(こうらい)橋の松本組洋店主・松本秋津が、時の農商務省より欧米の服装調査の依頼を受け視察に赴いた際、欧米諸国の宗教は一見してそれと分かる服装があるが、日本では他侶は別として神道人には、それらしき常用服がなかったそうです。

そこで「神道服」の製作を思いつき、仁徳天皇の時代に用いられたという服に袴を折衷し、帽子と襟・胸・肩・腰の部分に「日陰葛(ひかげかずら)」の唐草模様の刺繍(ししゅう)をほどこした現行の教服を考案し、明治36年(1903年)5月に発表、それが明治40年10月に至って内務省より「神道家常用式服」として認可されました。

その頃、天理教では一派独立運動の最中であり、教義・組織・制度万般にわたって整備が進められている時で、服装の面でも必要に迫られていました。

そこで松本組の製作、認可に協力、認可後は「教師常用式服」として採用することになりました。

明治41年9月26日に開校した天理教校別科では、白の刺繍を略した黒ずくめの式服が制服として昭和19年(1944年、昭和16年から別科は修養科に改組)まで用いられました。

このころの天理教校別科生は、全身が黒色の服装から、カラスと呼ばれていたそうです。

やがて一派独立(明治41年11月27日)後の明治43年1月26日、松本組は天理教の協力に対して「神道家常用式服」の一切の権利を中山眞之亮初代真柱に譲渡しました。

同年4月6日、内務省より正式に天理教の式服として認可されます。

昭和9年11月、「式服」から「教服」に改称。

現在、教服は、朝夕のおつとめ、春秋霊祭、地鎮祭、起工式、信者宅祭儀、その他の祭儀・儀式など広範囲に用いられています。

関連記事

https://wobiya.tokyo/tenrikyo-happi/
https://wobiya.tokyo/otsutome-gi/