親孝行とは
親孝行とは 埼玉県在住 関根 健一 先日、ある映画を見ました。 「いまにまるを」というタイトルの15分弱の短編ドキュメンタリー作品です。この映画の主人公である新田さんは、天理教の教会長として活動する傍ら、学習支援や障害福祉事業を通じて、長年にわたり障害者のサポートを続けてきた方です。 新田さんには、重度の知的障害がある娘さんがいらっしゃいます。彼女は言語によるコミュニケーションが難しく、排泄を含む生活の多くの場面で介助が必要です。 この映画では、新田さんが支援してきた子供たちや、娘さんとの生活を通じて得た気づきや教訓が、短い時間の中にギュッと凝縮されています。障害のある娘と生活する私たち夫婦にとって、この映画は非常に心に響くもので、観終えたあとしばらく涙が止まりませんでした。 そんな映画の中で、新田さんが語るとても印象的な言葉がありました。娘さんがまだ幼かった頃、新田さんは恩師から「娘さんには親孝行させなくちゃいけないよ」と言われたそうです。 「でも、娘は自分の身の回りのことも出来ないのに、親孝行させるとはどういうことだろう?」と疑問に思った新田さんは、恩師に「この子に親孝行をさせるには、どうしたらいいのですか?」と問いかけました。 すると恩師は、こう答えたそうです。「親孝行とは、子供が親を喜ばせること。どんな子でも、何もできなくても、その子のすべてを親が喜べば、その子は親孝行していることになるんだよ」。 その言葉を聞いて以来、新田さんは「子供のプラスを探す」ということを常に心がけてきたと語っていました。 実はこの話は、新田さんと出会った頃にも聞かせて頂いたことがあり、私の心に深く刻まれました。それ以来、折に触れてこの言葉を思い返し、娘が通う特別支援学校のPTA会長を務めていた頃には、卒業式の祝辞でこのエピソードを引用したこともありました。その際、多くの先生や保護者から「親孝行のお話、素晴らしかったです」と感想を頂いたことを、今でも鮮明に覚えています。 先日、80歳を過ぎた母が庭で転倒し骨折してしまいました。幸いにも命に別状はなかったのですが、突然の入院生活に母も戸惑っているようです。 私もできる限り頻繁に会いに行きたいのですが、コロナ禍以降、面会の時間や回数に制限があり、月に数回しか顔を見せることができません。この状況はとても寂しいのですが、「母の子供」としての感情から一歩引いて、「教会長」という立場で母の身に起きた出来事を、神様の思召しとして捉え直すよう努めています。 その中で、教祖140年祭に向かう年祭活動の2年目であることや、骨折という形で母がお見せ頂いたという事実に意味を見出そうと考えました。 そうした中で、ふと新田さんの話を思い出しました。 「親が子供のすべてを喜ぶことで、子供は親孝行となる」という言葉ですが、これを逆にして「子供が親のすべてを喜ぶことが親孝行につながる」とも考えられるのではないかと思ったのです。 私は幼い頃から母に様々なことを教えてもらい、多くを学んできました。そして今、母が高齢になり、以前のように何かを教え諭されることが少なくなったことに、寂しさを感じています。しかし、母の身に起きた出来事を通して私が神様の思いと向き合い、信仰を深めることができれば、それは「母が信仰者として私を仕込んでくれたのだ」と言えるのではないかと思うのです。 こうして考えると、人間はその「行い」だけでなく、「周囲の心」から救われることもあるのではないでしょうか。 極端な例かもしれませんが、現代ではメディアやインターネットの発達により、日々多くの犯罪がニュースとして報じられています。もちろん犯罪を犯すことは決して許されるべきではありませんが、その背景には、本人だけでなく周囲の環境や社会のあり方にも原因がある場合が多いのではないかと感じます。 「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますが、ただ行いを非難するだけでなく、そこから得られる教訓を社会の改善に生かすことができれば、未来は少しずつ変わるのではないでしょうか。 教祖が、自らを牢獄に入れるために迎えに来た警官に「御苦労さま」と声を掛けたエピソードがあります。その優しさに感化され、信仰に入った警官もいたといいます。 このお話に触れる度に、受け取る側の心遣い次第で、相手が徳を積むきっかけとなり、魂が浄化されていく可能性を感じます。 日々の生活の中で、相手に非があればそれを責めてしまうこともままありますが、そんな自分を振り返り、相手の行動にかかわらず、心穏やかに徳を積むきっかけを与えられるような人間でありたいと願っています。 だけど有難い「たすかるコツ」 お道の先輩方は「身上・事情は道の華」と言いました。病気に苦しんだり、事情に悩んだりするのが、なぜ華なのか。先人の多くは病気をご守護いただいたり、事情の悩みをたすけていただいたりして、この道を信仰するようになりました。だから、つらい病気も事情も、陽気ぐらしへのお手引きだと思えば有難いと喜べた。考えてみれば、確かに「道の華」なのです。 病気や事情で苦しんでいるときは、人間が素直になれる機会だと思います。元気で順調なら聞く気になれないことも、あらためて聞こうという気持ちになります。たすかるチャンスだと思うのです。 ドイツのケルン大学のロベルト・ギュンター名誉教授が、大学の雅楽アンサンブルを引き連れて来日し、河原町大教会の月次祭に参拝されたときのことです。神殿講話が終わり、おさづけの取り次ぎを受ける行列の最後尾に並ばれました。そして順番が来ると、こう尋ねられました。 「私はクリスチャンです。クリスチャンの私にも、そのお願いをしてもらえますか?」 私は「この教えでは、人間は生まれたときから、みんな親神様の子供であり兄弟姉妹だと教えられています。キリスト教徒であろうと、仏教徒であろうと、イスラム教徒であろうと、なんの問題もありません」。そうお答えして、おさづけを取り次がせていただきました。 後日お会いしたとき、「あれで本当によくなりました。たすけていただきました」と、お礼を述べられました。私は素直な方だなと思いました。 母親が子供に物を食べさせるときに「あーん」と言いますね。何が入るのか分からないけれど、子供は口を開けるのです。これが素直な姿です。 素直ということで、私がいつも思い出すのが、大教会のある役員のことです。あるとき、その役員の嫁いだ娘の家族が、アフリカのコンゴの教会へ行くことになりました。娘には三人の子供がいて、一番上は小学一年生、真ん中が幼稚園、一番下はまだ赤ちゃんでした。この役員は、かつて三年半ほどコンゴで暮らした経験があるので、現地の様子をよく知っていました。気づかぬうちに、赤ん坊の毛穴に虫の卵が産みつけられ、腫れあがって、そこから孵化した幼虫が出てくるようなこともあったそうです。それだけに、孫がかわいそうで泣けて仕方なかったのです。 空港へ見送る車のなかで、海外部の先生が「あなたはコンゴで一生懸命伏せ込んだので、子供も孫もコンゴへやらせてもらう。結構やなあ」とおっしゃった。それを聞いて、「よう言うてくれる。うれしいどころではない」と、内心思ったそうです。 空港で出発の時間が迫ってくると、いよいよつらくなって、孫たちがゲートをくぐるときは、悲しくて、たまらない気持ちになったそうです。ところが、その小学一年生と幼稚園の子供が、ゲート寸前で振り返って、「おじいちゃん行ってくるわ」と、ニコッと笑って入っていったというのです。 子供はどんな所へ行くときでも、親と一緒がうれしいのです。残されるほうが、よほどつらい。親と一緒なら、どこへでも喜んで行ける。これがたすかる姿だと思います。 病気や事情で悩むとき、自分の力でどうにかなるのなら、もうとうになっているのです。そんなときに大事なのは、この素直さですね。 また、私たちが神様の御用や、にをいがけ・おたすけをするときは、教祖がいつも手を引いてくださっているということを忘れてはなりません。教祖と一緒だと思ったら、どんな所へも行くことができます。悩む必要は何もないのです。素直、これが一番大事なたすかるコツなのです。 (終)