父の教え
父の教え 千葉県在住 中臺 眞治 思い出すだけで罪悪感や後悔の念に駆られる出来事が、誰にでも一つや二つ、あるものではないでしょうか。そして、たいていの人の場合、そうした記憶に蓋をし、なかったことにしながら日常を生きているのだと思います。 私の場合、そうした記憶が数えきれないほどあります。恥をさらすようですが、今日はその一つをこの場で打ち明けながらこれからの生き方を考えてみたいと思います。 今から21年前、大学を卒業後、東京にある日本橋大教会で勤務をしていた時の話です。当時、私が与えられた役割はホームレス状態の方の自立支援を行うことでした。大教会から3階建ての建物を貸して頂き、そこで一緒に暮らしながら自立に向けて様々な手助けを行うというものです。 また、夕づとめ後には天理教の教えを取り次ぐ時間を設けて色々と話をしていたのですが、そこで繰り返していたのは「徳を積むことが大切ですよ」という話でした。 「徳がないから行き詰まるんですよ。だから徳を積みましょう」と、あたかも自分は徳のある側で、相手は徳のない側であるかのような考えで話をしていたのです。あまりにも高慢な考えに、いま思い出すとゾッとしますが、当時の私は、自分の生活が大教会青年という立場に守られているものに過ぎないということに気が付いていなかったのです。決して徳があるから不自由なく過ごしているというわけではありませんでした。 そのことに気が付いたのは教会長に就任してからでした。前回の放送でもお話ししたのですが、孤独や貧困の中で心の中が不足ばかりになって行き詰まり、「あー、自分も徳のない人間の一人なんだ」と、そこで初めて自覚ができました。 そもそも徳とは何でしょうか。皆さんの周りにも、「この人は徳のある人だなー」と感じる方が何人もおられると思います。その方々を思い浮かべてみると、立場や財産があるから徳のある人だなと感じるわけではないし、それらがなくても徳のある人だなと感じることはあると思います。幸せに生きていくために、身体に必要なのが栄養であり、心に必要なのが徳ではないかと思います。 私の場合、父を見ていると、徳のある人だなと感じます。身内のことで恐縮ですが、私にとっては大きく影響を受けた存在でもあるので、ここでは父のエピソードを交えながら、「徳を積むってこういうことじゃないかな」、そして、「徳を積むとこうなっていくんじゃないかな」ということを語ってみたいと思います。 今から30数年前の話になりますが、私の実家である報徳分教会に一人のホームレスの方が訪ねてきました。50代の男性で「おにぎりを一つ分けて下さい」とのことでした。父はすぐに用意をして手渡しました。 するとその男性はとても喜んでくれたので、父は嬉しくなって「教会に住んでくれたら三食出しますよ」と提案しました。以来、その男性は74歳で亡くなるまで教会で一緒に暮らしていました。 このことがきっかけとなり、教会には人生に行き詰った方が次々と身を寄せるようになり、いつの間にかその人数はのべ700人近くになっていました。 そのような中で父がよく話していたのは、「どうしたら人が喜ぶか。どうしたら人がたすかるか。それだけ考えていたら幸せになりますよ」という言葉でした。 このようなエピソードを聞くと、優しい穏やかな父なのだと思われるかも知れませんが、元々はとても短気な性格で、若い頃は瞬間湯沸かし器のような怒り方をする人でした。それが段々と穏やかになり、60歳を過ぎた頃からはいつ会っても上機嫌な人に変わっていったのでした。そうした父の変化を見ていると、色んな人と関わることが自分自身の成長につながるのだなと感じます。 どうしたら徳が積めるのか。天理教の原典「おさしづ」では、 「不自由の処たんのうするはたんのう。徳を積むという。受け取るという」(M28・3・6) と教えられています。 不自由には、お金や物の不自由もあれば、人間関係の不自由や健康面での不自由など、様々な苦労があると思います。父の場合、困難を抱えた方々を大勢引き受けてきたわけで、当然毎日のように色んなハプニングが起こります。 初めの頃は父もよく動揺していました。深く傷ついたこともあったと思います。そういう意味では人での不自由はたくさんしていました。しかし、そうした日々を重ねていくうちに、いつからか「まったくしょうがないね~」と受け流すようになっていきました。そして、「こういう人がたすかっていったら楽しみだよな。がははははー」といつも笑っていました。 こうした誰に対しても隔てなく受け入れる父の振る舞いを見ていると、「徳のある人だな」と私は感じるのです。先述の原典のお言葉は、辛いはずの苦労がやってきた時に、それを楽しみや喜びに変えて通っていく中で徳は積まれ、神様にも受け取って頂けるということを教えて下さっているのではないでしょうか。 18年前、私が教会長に就任した時、父から言われたのは、「とにかく人で苦労させてもらいなさい。そうすれば先は楽しみだよ」という言葉でした。その言葉通り、教会では様々な事情で行き詰まってしまった方々をお預かりするようになり、楽しみも増えました。ですが、大きなハプニングが起こるといまだに動揺してしまうこともあります。 そんな時、父に話すと「まぁどんなに気を付けたところで、色んなことが起こるよな。でもさ、そんなこともある、そんなこともあるって思い続けることが大事なんじゃないかな。そういう風に考えてないと、本当に困っている人にたすかって頂くことなんてできないんじゃないかと思うけどな」と、心の置き所を諭してくれたこともありました。 苦労はできるだけ避けて通りたいと思うのが人情ではないでしょうか。私も同じ気持ちです。ですが、避けることのできない苦労であるならば、その中にもできるだけ楽しみや喜びを見出し、徳に変えて歩みたいところです。 父と比べるとおままごとのような私の日々ではありますが、「生きてて良かった」「良い人生だった」と思えるぐらいの徳は、心につけていきたいものだと願っています。 宗太郎さんの思い出 天理教教祖・中山みき様「おやさま」にまつわる逸話は数多く残されていますが、教祖のひ孫にあたる梶本宗太郎さんは、このような思い出を語っています。 教祖にお菓子を頂いて、神殿の方へでも行って、子供同士遊びながら食べて、なくなったら、又、教祖の所へ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしもうて、なくなると、又、走って行く。どうで、「お祖母ちゃん、又おくれ」とでも言うたのであろう。三遍も四遍も行ったように思う。 それでも、「今、やったやないか」というようなことは、一度も仰せにならぬ。又、うるさいから一度にやろう、というのでもない。食べるだけ、食べるだけずつ下さった。ハクセンコウか、ボーロか、飴のようなものであった、と思う。 櫟本の梶本の家へは、チョイチョイお越しになった。その度に、うちの子にも、近所の子にもやろうと思って、お菓子を巾着に入れて、持って来て下さった。 この当時は、お屋敷に対する警察の取締まりがとても厳しい時でした。にもかかわらず、子供の目線から見た教祖の面影やお屋敷の様子は、実にほのぼのとしています。「美しい絵巻物のような光景だ」。宗太郎さんは、そう回想しているほどです。 宗太郎さんのひいおばあさんは、実は生き神様であり、お屋敷は言わば「神の空間」でした。その神様にいちばん近い場所で、幼い子供たちは知らず知らずのうちに「陽気遊び」をしていたのでしょう。 教えに対する世間の反対や厳しい取締まりという社会事情はどうあれ、教祖はやって来る子供たちが可愛くて仕方がないのです。お菓子をねだりに繰り返し繰り返しやって来る子供たちとともに、教祖もまた、陽気遊びをしておられたのです。 教祖はその限りない親心で、すべての人々を自らの子供としてお育て下さいます。「子供の無邪気な姿を、親は大きな親心で包み込み、ともに楽しむ」。教祖と子供たちの、この楽しい逸話には、そんな尊いひながたが示されているのではないでしょうか。 (終)