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信仰心は、量産できない。

以前に講演依頼をいただいたとき、主催者にテーマを聞くと「信仰の喜びに触れるものがいい」との答えが返ってきました。「信仰の喜び」、それを私の言葉で話してほしいと。
私は、その講演の冒頭で次のように述べました。

「信仰の喜びを伝えることは、原理的に不可能です」

───なぜでしょうか?

信仰とは “賭け” である。
事前に価値は分からない。

私は次のように続けました。

「本日のテーマ(信仰の喜び)に入る前に、皆さんに聞きたいことがあります。

この中で、自分で選んで本を買った経験がある方、ちょっと手を挙げていただけますか?

───ありがとうございます。ほとんどの方が本を買った経験がある。

では、お聞きします。そのとき、本の内容が “全部” 分かって買ったという方、手を挙げてください。

───ありがとうございます。

そうですよね。内容は分からない。なのに僕たちは本を買う。ということは、その本が確実に面白いという保証はどこにもないんです。保証はないけど、面白そうだ、という予想をあてに僕らは本を買うわけです。それは、お金を払っても、当たりやハズレがあるということです。

それって、何かに似てませんか。不確実で、当たりやハズレがある。

そうです。賭けです。ギャンブルです。

みんな誰でも賭けに勝ちたいですよね。賭けに勝つためにやることは一つです。情報を得る。

本でしたら、本の装丁はどうか、デザインは、著者は、テーマは、目次は、売れ行きは、推薦者は、アマゾンの評価は、星の数は、書評は、出版社は、そういう情報をトータルで判断して買います。

ところが、いくらそうした情報に触れても、肝心要の本に書かれた内容が “あなたにとってどれほどの価値があるか” は、あなたが読む以外には知る術がない。つまり、外から本の価値は測れない。

本を読む意味と価値は、その本を読んだ人間にしか味わうことができない。原理的にそうなります。

話を戻します。

今日のテーマは信仰の喜びです。

繰り返します。信仰の喜びを伝えることは、原理的に不可能です。

それは読書と一緒です。
実際に手にとって読み進めて初めて本の世界が開けてくるように、信仰も自分自身で歩んで初めてその喜びにふれることができます。

またそれは、賭けに似てます。
全部が分かってから、信仰する。そんな人は、歴史上誰一人いないはずです。
分からないけど、何かしら心に感じる、それを信じてそこに賭ける。自分自身をベットするわけです。そうして信仰の喜びを自らが歩む中で体感するんです。

どんなに素晴らしいお話を聞いて、感動しても、それは話した人の経験で、残念ながら私自身の内から湧く喜びにはなりません。
人から本の感想を聞いても、私が本を読んだことにはならない。

もちろん、先人のお話を聞いたり、親の信仰姿勢に感化されたり、そうして背中を押してもらえることはあります。そしてそれはとても貴重なこと。価値あることです。
───でも、それでも、それが直ちに、「私の信仰の喜び」とはなり得ない。残念だけど。

これから僕は精一杯話します。
でも僕がやるのは、読書感想文と一緒です。“僕の” 信仰の喜びの体験です。みなさん自身がその本を読んだことにはならない」

信仰の喜びはハンドメイド。

「だから、信仰の喜び、もっと言えば、信仰心は大量生産できません。コピペできない。

いまの時代に量産できない、コピーできないって、どういうことだと思いますか。

とても価値がある、ということです。信仰の喜びは全てハンドメイド。あなたのオリジナル。

つまり信仰の喜びとは、「教祖がお教えくださった道と、自分自身の心を照らし合わせて、自らが歩む中に培われていくもの」です。

だから教祖はこの信仰を「道」とおっしった。地図ではなく、道です。地図なら眺めるだけでもいいですが、道は人が通ることを前提に存在します。通らないことには意味がありません。

そこでは、進むごとに新しい景色が広がり、自分自身も成長を遂げていく。それが道です。

ところで、本には、帯がついてますよね。よくそこには、お客さんの気を引こうと、有名人の推薦文や、気の利いたキャッチコピーが書かれています。

もし、あなたが、『天理教』という本の推薦文を頼まれたら、なんと書きますか?

それが帯に印刷され、書店に並びます。売上を左右するかもしれない。

私は今日、その帯に『世界を味わい、喜びを供える』と書きたいと思います。

『世界を味わい、喜びを供える』とは、私の信仰姿勢であり、お道の素晴らしさの私なり表現です」

教科書で信仰は伝わらない。
私の言葉、が必要。

以上が「信仰の喜びを伝えることは、原理的に不可能です」と言った意味です。

そして、私は、私の読書感想文を、その場に集まった皆さんに聞いていただいたのでした。

これは長い長い予防線です。
「僕の読みが浅かったり、誤読があったとしても、許してね」という前口上なのです。
話す内容に対する言い逃れなのです。
それくらい、「講師」として人前で信仰を語るというのは、くたびれます。

でも、同時に、───それ以上に、読書感想文こそが、自分のレビューこそが、本を手にとってもらう最良のオファーであろうと信じます。「広告より、口コミ」とはよく言いますが、信仰は、信仰こそは、誰かが作った広告や教科書を持ってきて読み上げてはいけないはずです。

教科書を読み上げるのは安心です。
自分の言葉で語るのはときとして怖い。
でも、その勇気を、いつも持ちたいと思います。

相手の眼を見る。

私の言葉で語る。

いま、ここで、私があなたに語りかける。

それは最低限のマナーであり、同時に、相手に対する最高の敬意だと信じるからです。

本(信仰)を手に取り、それぞれが生きる中で、読み進めていく。
そこに信仰の喜びを感じ、それぞれの言葉で、生きた言葉で、信仰を語り合いたい。

そう多くは必要ない、仲間とのそんな一夜は、私の心を温め、鼓舞し、勇気づけてくれる、憧れと追慕の時空なのです。

文:可児義孝 絵:たづこ
(イラストは後日アップします!)

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