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受け取って生きる。

人にお礼の品を贈るのは気持ちのいいものです。

でも、そのときはそうじゃなかった。残ったのは、なんともいえない “後味の悪さ” 。
それから2ヶ月近く経つのに、たまに思い出しては「贈るべきじゃなかったのでは」と考えてしまう。悪いことをしたわけではないのに。いったいこの感覚はどこからくるのか。

今回は「お礼を贈るときの気持ちよさと後ろめたさ」について。その先に見えてくるのは、「受け取ること」は「関係を結ぶこと」でした。

ほんの感謝の気持ち。

2ヶ月前、僕はこの『旅寝言』の連載を始めるにあたり、友人からアドバイスを受けていました。

その友人はかねてからブログを開設していて、PV数の実績もある。なにより僕自身が彼のブログを見て、いいなと思ったので、「どうやったらこんなふうにできるんだろ?」と連絡を取りました。

まず彼にホームページを見てもらい、製作中のデモ画面を送る。それに対して考え方や具体的な修正指示をもらう。彼は僕のレベルに応じた適切なアドバイスを送ってくれました。僕はそのアドバイスをもとに修正し、またチェックしてもらう。そのやりとりを繰り返すこと数回。おかげで僕はスタートを切ることができ、いまもこうして更新を続けています。

初投稿に向けた一連のやりとりが終わったとき、僕はそんな彼に何かお礼をしたいと思い、LINEで少額のアマゾンギフト券を送りました。

「いろいろとありがとう!これからもアドバイスをよろしくお願いします (^^) 」

というメッセージを添えて。

そして “善意” は “商品” に姿を変えた。

何かを受け取って、その返礼にお礼の品を贈る。これは社会人として当然のマナーです。
僕も、「これだけしてもらったのだから」と「アマゾンギフト券」を贈ったわけですし。

でもそのあと、なんとも言えない後味の悪さを感じました。
思うにそれは、一連のやりとりが、商品交換と同じように感じたからです。コンビニでものを買うような。

それはつまり、彼のアドバイスが商品であり、私のアマゾンギフト券はその対価ということ。
言い換えると、彼はコンサルタントであり、私はそのクライアントであるという図式です。
もし、私たちのやりとりが、この図式で説明されれば、そこには「役に立ちたい」という彼の善意も、彼の親切に対する「ありがとう」という私の感謝も、ともにその居場所をなくしてしまいます。
それはとてもさみしいことです。

それに加えて、対価を払うことで、そこに等価交換の要素を持ち込みます。
そうなれば貸し借りはありません。私に負債はないわけです。支払いは完了している。これは一見、奨励されるべき当然のことのようですが、同時に「関係を断ち切る」ことでもあります。
「お世話になった」という感覚を「支払い」が解消してしまう。そうなれば、貸す人(債権者)も借りた人(負債者)もいない。僕はきっとどこかで、負債をチャラにしたい気持ちがあった。貸しを作りたくないという気持ち。

ちょっとオーバーですが、私は対価を払うことで善意を商品に変えてしまったような気がしたのです。それこそが今回の “後味の悪さ” の正体ではないか。
(とはいえ、御礼を贈ることを全面的に否定しているわけではありません。こういう側面もある、という話です)

今思えば、あまり考えずに送った「これからもアドバイスをお願いします」のメッセージも、妙にさもしく感じられます。

友人の好意に、ただ「ありがとう」と応える。
そうしたら、僕らはより強く繋がれたかもしれない。
その繋がりは市場の原理を逃れ、当たり前のように助け合う関係を目がけたものです。

報酬が利他性を侵す。

ここでちょっと献血の話を。

献血量が少なくて医療現場が困っている、という話を聞いたことがある方は多いと思います。
特に年末は輸血を必要とする人が多く出るそうで、街頭での呼びかけも行われています。でも、そんなに必要な血液なのに、献血を有償にするという話は聞いたことないですよね。基本的に、献血は「善意」でなされるもので、それは「無償」でなされます。

1995年、スウェーデンである社会実験が行われました。

血液センターで、これから献血しようとする女性、153人を対象としてその実験は行われました。
まず彼女たちを3つのグループに分けます。

A:献血は任意で、献血しても無償であると伝えた。
B:献血したものには一人50クローナ(約7ドル)の謝礼金が支払われる。
C:謝礼金50クローナが支払われるが、それはそのまま小児がんの慈善事業に寄付すると伝えられた。

もともと献血をする気のあった人たちです。献血したうえに、謝礼金が支払われるBのグループは、他のグループより強い動機づけが働くことが予想されます。その結果は次のようになりました。

A の献血率は52%。
B の献血率は30%。
C の献血率は53%。

この結果から言えること、それは、もともと献血しようと集まった人たちのグループであるにも関わらず、「50クローナの謝礼金は、献血を踏みとどまらせる効果があった」ということ。つまり、献血を有償にすることが、かえって人々の意欲を削いだのです。

このことから、「金銭的報酬が利他的な行動を抑え、善行を積みたいという自発的な欲求を阻む」との見解が示されました。

(参照:『モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか』講談社+α文庫 ダニエル・ピンク著)

僕はここに、「友人にアマゾンギフト券を贈る後味の悪さ」に通じるもの感じます。
彼の善意を文字通り「換金」してしまった。その後味の悪さ。
そしてそれ以上に、自分が、友人関係に市場の原理を持ち込んだという恥ずかしさ。
なぜならそれは、私が他者に何かをした際に、お礼を期待する気持ちの裏返しでもあるからです。

負債が善意を駆動する。

彼はきっと、貢献したいという純粋な気持ちで、僕の相談に乗ってくれたと思います。
そのとき彼はまさしく「友人」としていてくれたのであって、「コンサルタント」としていたわけではなかった。彼は「お役に立てて嬉しいです」と言った。それは贈り物です。「何かと交換すること」を目的としていない、純粋な贈与。
だから僕も、それを喜んで受け取るべきだった。

受け取って返さないことは、礼儀に反すると言う人もいると思います。もちろんそういうこともあります。しかしだからといって、そうした関係が全てではありません。それは客観的な第三者の視点です。そこには市場経済のロジックが顔をのぞかせています。でも、友人という関係性の内側にもぐってみると、また違った景色が見えてくる。

僕は返礼をしたことで、かえって礼儀に反することをしたと感じています。彼の善意を買い上げてしまった。それはとても失礼なことです。

受け取って返さない、それは経済で言えば「負債」です。でも、この負債こそが、「貢献したい」という善意と「助けてもらった」という感謝のサイクルを形作ってくれる。人間的な関係を取り結んでくれる。そんなふうに思うのです。
そしてこの負債は、「彼に何かあったときは力になりたい」という僕の善意を駆動してくれる。それは、「交換が完了」し「関係が終わる」こと以上に、僕にとっては価値のあることです。
(前提として、彼が好きだからですが。嫌な人はこの限りではない・・・)

贈与を真っ直ぐ受け取る。
それは私たちの “生きる” を肯定する。

受け取って返さないのはある意味で勇気がいります。信頼がいる。現にそれで気分を害する人もいる。だから、このことをあらゆる場面で推奨する気はありません。そしてそんなふうに簡単に割り切れない世界を私たちは生きています。

でも、ある場面では贈与を上手に受け取ることは、相手にとっても私にとっても幸せな在り方かもしれない。

現に人は生きるうえで間断ない贈与を受け取っています。
降り注ぐ陽光、地球を満たす大気、枯れること無い水、そうした自然の贈与の無限の連鎖。それは到底返すことのできない恵み。こう言うと、「自然を持ち出すのはルール違反だ」と言う人がいるかもしれない。でも、それを抜きにしても、私たちは生まれ落ちた瞬間から親の庇護という無条件の贈与を受け取っています。そうしたことに等価交換なんて言い出したら、一生かかっても無理です。日を追うごとに借金は増えていきます。

だからときに、私たちは次のように考えることも大切かもしれません。

喜んで受け取る。
受け取ったものを存分に味わう。
受け取ったものを活かして生きる。
それが最上の “お礼” なのだ。

私たち現代人は、こうした在り方を忘れてしまいがちです。もしくは、いつのまにかこうした関係が、“苦手” になったのかもしれません。

市場の外で関係を結ぶことは、ときに金銭以上の報酬を私たちにもたらします。それは善意と感謝の関係。献血の実験が示すように、人は金銭的な欲求とともに、利他的な欲求を抱えている。だからこそ、「贈ること」と「受け取ること」で人は強く結ばれる。それは善意の負債となって人をモチベートし、世の中をめぐっていく。その積み重ねが、私たちの “生きる” を肯定する力となっていく。

返礼にともなう後味の悪さを見つめると、どうもそういう不思議な力が働いているように思います。

私たちヒトは、そんな稀有な特徴をもった生き物かもしれません。

(とはいえ、これは「お礼しない宣言」ではないので、どうぞ友人諸氏、今後ともお力添えのほどをよろしくお願いします)

文:可児義孝 絵:たづこ

tabinegoto#11

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