左の病気・怪我は前知らせ、右の病気や怪我はお叱りと云うおさしづからの悟りです。最下部に「左善、右悪という理」についてのおさしづを載せています。
該当するおさしづは4か所です。
それら全て「身上」、つまり病気や怪我に対してのおさしづです。
目次
左善について
「左善」の字面を見ると、「善」という文字には「良いこと」という意味があります。
何故、病気や怪我が「良いこと」に分けられているのでしょう?
天理教の教えでは、「身上・事情は神の催促(神様からのお知らせ)である」と言われています。
この「催促」の意味合いには2種類あります。
- 前知らせ(道おせ、手引き)
前知らせは、これから起こる事への警告です。
- ・お叱り(意見、立腹)
お叱りは過去の事に対するしっせき叱責です。
ここで注目して欲しいのは「前知らせ」という箇所。
神様が、これから起こってくる出来事に対して「気をつけなさい!」と知らしてくれているのです。
後ろから車が猛スピードで近寄ってきてることに気が付かない自分に、「危ないよ!!」と事前に伝えてくれているのです。
言葉で伝えてくれたらいいのに!と思うかもしれませんが、神様の声が聴けるわけでもありませんし、仮に聞こえてきても空耳かな?と思ってしまいそうですね。
そう捉えてみると、病気や怪我といった身体的に現れる事の方が、気付きやすいのかもしれませんね。
といったように、「悪い事の前知らせ」を教えてくれる事から、「善(良い事)」と表現しているのですね。
右悪について
右悪については字面通りですね。
左善では「前知らせ」という意味でしたが、右悪については、「お叱り(意見、立腹)」という意味があります。
何についてのお叱りなの?と聴かれれば、「悪い心遣い」に対してのお叱りですね。
悪い心とは、人を悪く思ったり、人に悪く思わす心という意味もあります。
こういった悪い心遣いを「八つのほこり」と教えられています。
「八つのほこり」とは
身体の右に現れる病気や怪我は、これら八つのほこりを積んでいないか?と神様からお叱りを頂いているということになりますね。をしい
心の働き、身の働きを惜おしみ、税金や納めるべき物を出し惜しむ。また、世のため、人のための相応の務めを欠き、あるいは、借りた物を返すのを惜しんだり、嫌なことを人にさせて自分は楽をしたいという心。
ほしい
努力を怠おこたり、十分な働きもしないで金銭を欲しがり、分不相応に良い物を着たい、食べたい、また、何によらず、あるがうえにも欲しいという心。
にくい
人の助言や忠告をかえって悪く取って、その人を憎む。また、嫁姑よめしゅうとめなど身内同士の憎み合い。さらには、人の陰口を言ってそしり、笑い、あるいは罪を憎まず人を憎むという心。
かわい
自分さえ良ければ人はどうでもよい。わが子への愛に引かされて食べ物、着物の好き嫌いを言わせ、仕込むべきことも仕込まず、間違ったことも注意しないで、気ままにさせておくという心。また、自分のために人を悪く言うのもほこり。
うらみ
体面を傷つけた、望みを妨げた、どう言ったと自分の不徳を思わず、人を恨み、根に持つような心。
はらだち
人が悪いことを言った、意に反することをしたと腹を立てる。理を立てず、我を通し、相手の言い分に耳を貸そうとしないで腹を立てるような心。
よく
人より多く身につけたい、取れるだけ取りたいという心。数量をごまかし、人を欺だまして利をかすめ、あるいは盗み、取り込むなど、何によらず人の物をただわが身につけるのは強欲。また、色情に溺れるのは色欲。
こうまん
力もないのに自惚うぬぼれ、威張り、富や地位をかさに着て人を見下し、踏みつけにする。また、頭の良いのを鼻にかけて人を侮あなどり、人の欠点を探す、あるいは知らないことを知ったふりをするような心。
身体の右に現れる病気や怪我は、これら八つのほこりを積んでいないか?と神様からお叱りを頂いているということになりますね。
気を付けて貰いたいこと。
「左の病気・怪我は前知らせ、右の病気や怪我はお叱り」と書くと、
右も左もどっちも病気や怪我で苦しいよ!とか、
あの人、右に病気や怪我がでてるから心遣いが悪いんだな!とか思いがちになると思います。
そういったふうに思ってしまうことで、八つのほこりの心遣いをしてしまっては、折角のお知らせが台無しです。
大事なのは、
「神様が、自分の為を思って、病気や怪我を通して知らしてくれている」と、感謝の心を持つ事が大事なのかもしれませんね。
おさしづにも、
右さかい悪いと言えん。(明治三十一年九月二十五日 増井りん身上願)
とあります。右ばかりが悪いんだとは、言えないのですね。
ちなみに「さかい」とは、関西圏でつかわれる「~だから」という意味ですね。
「左善、右悪という理」おさしづ該当箇所一覧
「明治三十一年九月二十五日 増井りん身上願」
のおさしづに、
右左思う。右は悪、左は善。右は悪の知らせという。左は善の知らせという。右さかい悪いと言えん。
とあります。なんの身上だったのでしょうね。
「明治二十三年六月三日朝 増田甚七左の目障り願」
該当部分を引用してみると、
さあ/\身上の処、右左は無いで。一寸の理は諭してある。左善、右悪という理を諭してある。どちらも身の内、難しい身上にも、軽き事情もある。軽き中にも難しい理がある。身の内の処、不足があればいろ/\に思うやろ。思うも理である。身上案ぜる事は要らん。世上へ一つの理が治まってあれば十分という。…
ここでの「右左は無い」という箇所ですが、ここでの「無い」の意味は「同じ物が二つと存在しない。」という事かな。
「明治二十四年七月八日 寺田半兵衞家族の者身上に付伺」
これまでほのかにも聞いて居るやろう。右は悪左は善、一つ/\知らせ。辺所たる処、又々事情、それ/\一日の日を定めて、それ/\身の処今日と定めば一つ障りという理聞き分け。右は悪左は善、辺所たる処、一時何とも分からん。難しい所へは連れて行かん。今日は何処其処へと思う。たすけ一条は行かにゃならん。行けば諭す理、世上一つ事情、これさえ持って居れば一日も危なきは無い。辺所を道付きよいて一つ内の処、今日という。右左差し入りていつ/\まで事情という。
身上箇所は
・右の脇腹よりこくらかえり
・右の肩詰まり頭痛致す
の2つですね。
「明治三十年八月二十日 本席十日程前より左耳の御障りに付願」
左善、右は悪。善き事はすっきり一つも聞かしてない。善き事聞かんものなら要らんものや。この道理を聞き分け。