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明治二十二年八月十一日(陰暦七月十五日)
増野正兵衞身上下痢の伺

明治二十二年八月十二日(陰暦七月十六日)
松村栄治郎身上障り願

明治二十二年八月十三日(陰暦七月十七日)
上田嘉治郎六十才身上障りに付伺

明治二十二年八月十七日(陰暦七月二十一日)
増野喜市の身上心許なく、神様の御守護にて全快致せしや、遠国の処にて案じらるゝに付伺

明治二十二年八月十八日 頃
当三島村田中忠蔵、清水利八、中島嘉三郎、中川勘平宅地一反三畝十八歩、おやしき地面続きに付、買入れの事御許し下さるや願

明治二年八月十九日
清水与之助身上の願

明治二十二年八月十九日
清水はる熱強く、上へ戻すに付願

明治二十二年八月二十日(陰暦七月二十四日)
梶本うの指先の障りに付願

明治二十二年八月二十一日(陰暦七月二十五日)
中山会長始め、梶本松治郎、山沢為造、ひさ、うの、身上の理から皆引寄せて御話あり

明治二十二年八月二十三日(陰暦七月二十七日)
増野正兵衞神戸へ帰宅御許し願

明治二十二年八月二十四日
兵神分教会所にて参詣人不思議なる御自由あり、いかなる御知らせなるや、清水与之助、増野正兵衞、中井宗七より伺

明治二十二年八月二十五日(陰暦七月二十九日)
本席口中左の上歯痛み頬腫上り身上御障りに付願

明治二十二年八月二十六日
撫養斎田村に於て支教会設置の願(撫養支教会)

明治二十二年八月二十六日(陰暦八月朔日)
増野正兵衞身上障り伺

明治二十二年八月二十六日(陰暦八月一日)
兵神分教会所講社の人多く泊める事伺

明治二十二年八月二十六日(陰暦八月一日)
辻忠作娘とめぎく願

明治二十二年八月二十七日
旧東京出張所なる東分教会所の井戸掘替に付伺

明治二十二年九月三日(陰暦八月九日)
井筒梅治郎妻とよおさづけの願

明治二十二年九月四日
松村吉太郎のぼせるに付伺

明治二十二年九月七日 午前七時
上原佐助左の足首痛みに付願

明治二十二年九月十日
本田分教会地方庁へ願出で致しますか、国々派出して宜しきか願(芦津分教会)

明治二十二年九月十日(陰暦八月十六日)
増野正兵衞咳の障り伺

明治二十二年九月十六日(陰暦八月二十二日)
明二十三日兵神分教会月次祭なるも、清水与之助事情のため帰る事出来ず、よって増野正兵衞代りて神戸へ帰る事増野より伺

明治二十二年九月十六日(陰暦八月二十二日)
前御願、地所買取中山会長の名義に書換御許しの願

明治二十二年九月十六日(陰暦八月二十二日)夜十時二十分
本席身上御障りに付願

明治二十二年九月十七日(陰暦八月二十三日)午後九時
刻限御話

明治二十二年九月十九日(陰暦八月二十五日)
増野松輔足障り伺、(増野正兵衞八日の日おぢばへ夫婦連にて参詣、その日松輔徴兵検査より帰る道にて、不意の足障りに付伺)

明治二十二年九月十九日(陰暦八月二十五日)
前夜飯降さと、よしゑの事情より両名直にさんげの際御話あり

明治二十二年九月二十一日(陰暦八月二十七日)
清水与之助身の障り願

明治二十二年九月二十一日(陰暦八月二十七日)
清水与之助帰会の願

明治二十二年九月二十二日(陰暦八月二十八日)
船場分教会所普請落成に付、陰暦九月八日、九日(陽暦十月二日、三日)に落成式致度御許し願

明治二十二年九月二十三日(陰暦八月二十九日)午前四時
刻限御話

明治二十二年九月二十三日
地所中山会長名義登記の御許し願

明治二十二年九月二十三日
増野正兵衞夫婦去る十四日より咳障りに付伺

明治二十二年九月二十三日
阿波国板野郡撫養斎田村に於て、撫養支教会設置の件に付願

明治二十二年九月二十三日
松村栄治郎身上伺

明治二十二年九月二十六日 午前九時
甲賀支教会願書滋賀県庁へ差出しの儀に付伺

明治二十二年十月三日
増井りん願

明治二十二年十月四日(陰暦九月十日)
阿波国板野郡斎田村に於て支教会普請願(撫養支教会)

明治二十二年十月七日(陰暦九月十三日)午後九時半
本席身上の障りに付願

明治二十二年十月九日(陰暦九月十五日)午前一時四十分
高井猶吉身の障りよりの刻限御話

明治二十二年十月十日(陰暦九月十六日)
刻限御話

明治二十二年十月十四日(陰暦九月二十日)午前八時二十分
本席身上御障りに付願

明治二十二年十月十四日(陰暦九月二十日)
刻限御話

明治二十四年三月十二日
梅谷四郎兵衞長男梅次郎十五才教祖五年祭に付本部に十四五日居る間に目の障りに付伺

明治二十二年十月二十二日(陰暦九月二十八日)午後十一時
刻限御話

明治二十二年十月二十二日(陰暦九月二十八日)午後十一時
山本しげの身上の障り伺

明治二十二年十月二十三日
梅谷四郎兵衞身上願

明治二十二年十月二十三日(陰暦九月二十九日)午後十時
刻限御話

明治二十二年十月二十五日(陰暦十月二日)午後七時
刻限御話

明治二十二年十月二十六日
増野正兵衞三島村足達保次郎田地三畝九歩買入れに付、御礼を申上げおさしづ

明治二十二年十月二十六日
増野正兵衞居宅新築御許し願

明治二十二年十月二十六日(陰暦十月三日)
本席別風呂仕立ては、気兼ねせられ、外の湯に入りたいと仰せらるゝが、如何のものでありますや伺

明治二十二年十月二十六日(陰暦十月三日)
おさしづの後へ御話

明治二十二年十月二十六日(陰暦十月三日)
河内国松村栄治郎老母出直に付、中山会長斎主御許しの願

明治二十二年十月二十八日(陰暦十月五日)
前伺中山会長御名前に登記御許し願

明治二十二年十月二十九日
増野松輔身上全体腫れしびれ、去る十四日身上障りあり、一時御陰蒙り、主人の方へ帰し、又同方にて障りに付、主人方より取戻せとの事に付、その儘にして置きまして宜しきや伺

明治二十二年十月二十九日(陰暦十月六日)
村田幸助身上障りに付願

明治二十二年十月二十九日(陰暦十月六日)
檪枝の堀内与蔵村田方へ入込みの願

明治二十二年十月三十日(陰暦十月七日)
上田ナライト身上障り願

明治二十二年十月三十一日(陰暦十月八日)夜九時
刻限御話

明治二十二年十一月一日(陰暦十月九日)
松村栄治郎身上伺

明治二十二年十一月一日(陰暦十月九日)
増井りん身上障り願

明治二十二年十一月一日
増野正兵衞神戸へ帰宅御許し願

明治二十二年十一月二日(陰暦十月十日)午後九時
本席身上障り願

明治二十二年十一月二日(陰暦十月十日)
橋本清紀州熊野行に付願

明治二十二年十一月三日(陰暦十月十一日)
,さあ/\尋ねる事情尋ねにゃ分からん。尋ねれば何彼もさしづする。一時一つの事情尋ねる処、これまで事情に遅れてある。今の処は一時芯と言うて定めてない。定めたら何座のつとめに何人と言うて、人数が要る。いんねん無き事情は治めよとても治まらん。一座分かる/\。今一時勤めてくれるよう。今一時人数定まりない。いずれ人数の芯を定めにゃならん。定めても一時と言うて代わりを出さんならんという日もある。そこで多くの人数が要ると言うてある。一座にこの理を切りて、又今度のつとめと代り合うて勤めてくれるよう聞き分け。あの者がつとめ一条の芯と言うても、心の理によって芯が立たんという事情もある。古きいんねん一つ事情、そこで一つ何かの事情も治めてくれるよう。

明治二十二年十一月三日(陰暦十月十一日)
松村栄治郎身上伺、(郡山増田方にて世話致し度き願)

明治二十二年十一月六日 午後八時
中山会長河内松村へ葬式見送りに行くに付伺

明治二十二年十一月六日
永尾たつゑ身上願

明治二十二年十一月六日(陰暦十月十四日)午後九時
刻限御話

明治二十二年十一月七日
梅谷四郎兵衞長女たか十才、左の目の上に一つの出来もの、とみゑ三才、右の耳及おとがいに、くさ出来しに付願

明治二十二年十一月七日(陰暦十月十五日)
鴻田忠三郎歯痛み願

明治二十二年十一月七日 午後十時四十分
刻限御話

明治二十二年十一月九日(陰暦十月十七日)
永尾たつゑ身上今一段速やかならぬに付願

明治二十二年十一月九日(陰暦十月十七日)午後十時半
刻限御話

明治二十二年十一月十日(陰暦十月十八日)
先日東京に分教会所御許しになりしが、出張所を引払い、分教会と名称を変えては如何伺

明治二十二年十一月十一日(陰暦十月十九日)
永尾たつゑ身上障り伺

明治二十二年十一月十一日
石西三五郎宅跡へ板柵して宜しきや、壁にして宜しきや願

明治二十二年十一月十三日
今のおつとめ場所、西手石西の方へ壁を取払い、庇二間差し掛け、長七八間御許しの願

明治二十二年十一月十五日
井筒梅治郎身上願

明治二十二年十一月十六日(陰暦十月二十四日)
大阪今村熊太郎ランプ商業を営みても宜しきやに付伺(明治二十一年正月よりおぢば勤めをさして頂き、半歳余りして家族を大阪より呼寄せたるに、これという収入無き処より)

明治二十二年十一月二十日
増野正兵衞前々おさしづに『継ぐ間違うのち/\十分一日の日』と御聞かせにあづかり、就ては正兵衞三年以前に隠居致し、松輔を本人と定めましたのが、違いますかの伺

明治二十二年十一月二十日
諸井その三十三才身上障りに付伺

明治二十二年十一月二十三日
東京出張所の上原佐助、清水与之助に対し、本部設立の節不行届にて打合せ悪しくに付、一同相談の上、清水与之助、平野楢蔵出張して打合せに行く事願

明治二十二年十一月二十三日 朝
清水与之助、平野楢蔵東京へ出張の件の後にて、清水与之助の身上の障り願

明治二十二年十一月二十五日
前川菊太郎、梶本松治郎、永尾楢次郎、三名別席の願

明治二十二年十一月二十七日
山沢サヨの障りに付伺

明治二十二年十一月二十九日
東京市下谷に在る出張所を下谷分教会と引直しに付、前川菊太郎派出の際伺いさしづ

明治二十二年十一月三十日(陰暦十一月八日)午前九時半
上田ナライト身上願(これまで一身暮らし(独身生活)という事をお聞かし下れしが、やはり一身暮らしで越すものでありましようや、夫を持って越すものでありましようや、如何の願)

明治二十二年十一月三十日
増野いと左の腹に差し込むに付願

明治二十二年十一月 頃
豊田村辻かめ伺

明治二十二年十二月一日
日々の席休む処の願

明治二十二年十二月八日(陰暦十一月十六日)
山沢ひさ身上乳の出ぬ処、いかなる訳なるや伺

明治二十二年十二月八日
増野正兵衞内々一統協議の上、おぢばへ引越しますに付、村田長平向の家か、三番地の足達源四郎離座敷借り受けるか、いづれ宜しきや願

明治二十二年十二月九日 午後四時
河原町分教会開筵式に付、明日より祭式準備のため出張の願

明治二十二年十二月九日(陰暦十一月十七日)
京都河原町分教会へ本席御出張願

明治二十二年十二月九日
西京河原町分教会所月次祭並に説教日の御願(但し、月次祭は毎月陰暦二十四日、説教日は毎月四日、十四日、二十四日三回)

明治二十二年十二月十四日(陰暦十一月二十二日)午前六時
中山会長始め、橋本清、桝井伊三郎、梅谷四郎兵衞、増野正兵衞、河原町分教会所開筵式に出張の儀御許し願

明治二十二年十二月十四日
奈良平田郡長より中山会長を呼び出し、その談示には、江州高浜郡長より同地方にて、天理教会講社の者間違いな事をするにより、教会の事に詳しき者が来て取締りくれとの事に付、平田郡長添書を持ち橋本清出張の御許し願