「明治二十七年」の一覧を表示しています
明治二十七年六月十三日
増野いと腹張るに付願
明治二十七年六月十七日
本席腹ひっくり返えるようになり身上に付願
明治二十七年六月十七日
郡山分教会へ岩崎吉三郎、小原亀次郎入り込みの願
明治二十七年六月十七日
矢追楢蔵の願
明治二十七年六月二十日
網島分教会地所百三十九坪余買い入れ願
明治二十七年六月二十三日
増野正兵衞小人道興目かい障り、又正兵衞母神戸より連れ帰る事を申し上げて願
明治二十七年六月二十五日 朝
東京地震に付御滞京中の教長の伺、及び信徒見舞のため出張の願
明治二十七年六月二十七日
南海分教会普請に付、会計同教会会計不和来たしゝに付板倉槌三郎、一個の見舞として行きその際御諭し申し度きに付願
明治二十七年六月二十七日(陰暦五月二十四日)
山沢ひさ身上熱ありのぼせに付願
明治二十七年六月二十八日
村田幸助身上願
明治二十七年六月二十九日 朝
神道本局負債二万八千円今回悉皆弁償に付、当会より三千円出金の事願
明治二十七年七月三日
西田伊三郎妻コト身上願
明治二十七年七月四日(陰暦六月二日)夜
辻忠作身上の願
明治二十七年七月六日
堀内与蔵子息吉太郎十九才身上願
明治二十七年七月九日
刻限御話(事情済みの後にて)
明治二十七年七月九日
永尾よしゑのぼせ十四五日前より食の味失いしに付願
明治二十七年七月十日
東分教会入社祭御霊祭毎月陰暦二十七日に致し度く願
明治二十七年七月十日
上田嘉治郎身上両足に浮き回り、顔にも浮き回るに付願
明治二十七年七月十日
平野楢蔵身上願(東国地方へ布教に行きて帰りし後障りに付)
明治二十七年七月十一日
高安部内古市支教会浅野喜市出直せしに付、後任の処同人小児を以てするが宜しきや又役員を見分けてするが宜しきや伺
明治二十七年七月十二日
撫養部内名西出張所へ地方人民より雨乞い出願に付心得まで願
明治二十七年七月十二日
村鈴木由太郎の地所八畝十坪杉本重太郎買い取り本部へ寄付するに付御許し願
明治二十七年七月十二日
芦津部内笠岡支教会地所他の人の名にて一時買い求め置き度きに付心得のため事情願
明治二十七年七月十二日
井筒梅治郎手患い妻とよも出物にて、両人共手の患いに付願
明治二十七年七月十二日
井筒梅治郎笠岡支教会副会長西山平四郎辞職願い出でに付、会長として治め方の心得まで願
明治二十七年七月十二日
増野正兵衞今朝起きて頭重く頭痛に付願
明治二十七年七月十六日
桝井伊三郎母ゆき身上願
明治二十七年七月十九日
教祖石碑玉垣十二尺九寸、十二尺一寸御許し願
明治二十七年七月二十六日 朝
日清間事件に付朝鮮国へ人夫五百人本部より出す願
明治二十七年七月二十六日
神道本局より教長へ幹事及び神殿建築監督受諾の件申し込みに付伺
明治二十七年七月二十七日
朝鮮事件に付軍資金として金一万円献上の願
明治二十七年七月二十七日
朝鮮事件に付人夫五百人差し出し願
明治二十七年七月二十八日
上田ナライト気の間違いの如くなりしに付願
明治二十七年七月三十日
朝鮮事件に付明日より三日間軍人健康祈祷執行願
明治二十七年七月三十日
前川梅三郎二十五才身上の願
明治二十七年七月三十日
刻限御話(前川梅三郎身上願後引き続きて)
明治二十七年七月
諸井国三郎胸つかえ、三度吐き直ぐ救かり、それ故登参致し身上願
明治二十七年八月三日
渡韓に付監督として本部より三名出張の処都合により今二名増加、平野楢蔵、松村吉太郎、橋本清、喜多治郎吉他に一人、五名行く願
明治二十七年八月五日
中山会長本局管長へ挨拶のため箱根へ出向に付願
明治二十七年八月八日
村田おいゑ身上願
明治二十七年八月十六日(陰暦七月十六日)
日清事件人夫事情に付願(日清事件につき当本部より人夫五百人寄付の次第陸軍大臣へ願い出の処、当日義勇兵出願者に対して差し止めの大詔煥発相成りし故、福家秘書官の意見を諒し、名古屋師団へ出願の処、普通人夫としてより採用これ無きに付、一先ず帰本して本部員会議を開き、義勇人夫として採用これ無き時は一先ず見合わし、金円にて一万円献納の願)
明治二十七年八月十六日
この度日清事件に付徳島県庁より日和佐支教会及び同地方への達しには、狼火(のろし)打ち上げたれば片付けをして遠方へ逃れよとの事でありますが、その時如何致しましたものや願
明治二十七年八月十七日
在韓兵士健康祈祷毎月一回ずつ行う事願
明治二十七年八月十七日
本局神殿建築監督受諾の儀本局管長より押して願に付諾否の願
明治二十七年八月十七日
山沢サヨ身上に付願
明治二十七年八月十七日
寺田コウ身上願(上げ下だし熱出で甚しくに付)
明治二十七年八月十七日
神沢瀧蔵身上願
明治二十七年八月十九日
村田おいゑ身上願
明治二十七年八月二十一日
山田作治郎妻身上障り、又分教会役員それ/\障り失火後教会治め方に付願
明治二十七年八月二十二日
増野正兵衞去る十日頃より声かすみ且つ左の目障りに付伺
明治二十七年八月二十三日
上田民蔵小人身上障り伺
明治二十七年八月二十七日
中山会長より直に御願(奈良郡長より軍事公債の事に付知事より御話これある由言う事にして宜しきか心得まで御願)
明治二十七年八月二十七日
中山会長より清水与之助願の事に付御願
明治二十七年八月二十七日
下村賢三郎母身上願
明治二十七年八月二十八日
畑林やす身上願
明治二十七年八月三十日
富松たみ身上願
明治二十七年九月一日(陰暦八月二日)
桝井伊三郎小人孝四郎を高知分教会長島村菊太郎よりくれとの事情、喜多治郎吉より願
明治二十七年九月五日
清水与之助の事件に付願
明治二十七年九月六日
諸井ろく身上願
明治二十七年九月七日
山名分教会所敷地会長諸井国三郎名前の処この度教会所の名前に致し度く願
明治二十七年九月九日
諸井国三郎の長男政一本籍当三島へ移し、相続は末女ろくに致し度く願
明治二十七年九月十二日
芦津分教会部下笠岡支教会の事情に付永尾楢次郎、桝井伊三郎両名出張の願
明治二十七年九月十三日
前川菊太郎上京するに付御許し願
明治二十七年九月十三日(陰暦八月十四日)
飯降まさゑ縁談事情願
明治二十七年九月十三日
増野正兵衞夜々眠られず身体中しんが痛み、なれど起きては堪えられん事もなく且つ咳出るに付伺
明治二十七年九月十四日(陰暦八月十五日)午後十時
飯降まさゑ、松村五三郎縁談の願
明治二十七年九月十七日(陰暦八月十八日)
中山こかん二十年祭又来年は中山秀司の十五年祭御勤の儀如何と願
明治二十七年九月十九日
山本利三郎内へ乳母置くの願
明治二十七年九月二十一日(陰暦八月二十二日)夜十二時五分
刻限(但し飯降まさゑ縁談一条に付)
明治二十七年九月二十四日
上田嘉治郎六十五才身上願
明治二十七年九月二十五日(陰暦八月二十六日)夜
陰暦二十七日こかん二十年御霊祭に付おかぐら舞奏の願
明治二十七年九月二十六日
日本橋分教会長中台勘蔵身上の願
明治二十七年九月二十六日
日本橋会長中台勘蔵出直しに付、教長御上京願
明治二十七年九月二十六日
日本橋中台出直しに付、本部より増野正兵衞、桝井伊三郎両名上京願
明治二十七年九月二十六日
東京日本橋分教会長中台勘蔵出直しに付、分教会長五名総代として葬祭に出会のため上京の願
明治二十七年九月二十九日
山名分教会の敷地諸井国三郎の処、この度教会所の名前に致し度きに付おさしづより又再願
明治二十七年十月九日(陰暦九月十一日)夜
本席御身上願(但し飯降まさゑ縁談事情)
明治二十七年十月十一日
梶本楢治郎、飯降まさゑ縁談の事情願
明治二十七年十月十四日
高安分教会敷地東側寺池他の地所並びに池と換地取り掛かりの儀心得まで願
明治二十七年十月十五日 夜
梶本楢治郎、飯降まさゑ縁談行き届きしに付願
明治二十七年十月十五日
村田すま身上願
明治二十七年十月十九日
東分教会これまで陽暦十月二十五日二十六日両日を以て大祭執行致し居る処、この度日清事件に付本年に限り一日だけにして成るだけひっそうにして御祭致し度きに付願
明治二十七年十月二十一日
日本橋分教会長出直しに付、後任伜二代目、中台勘蔵(旧名平次郎)に任する願
明治二十七年十月二十五日
河原町部内秩父支教会事務所焼失に付願
明治二十七年十月二十五日
寺田半兵衞及び小人身上の願
明治二十七年十月二十六日
刻限話(飯降まさゑ婚礼の席にて)
明治二十七年十月二十六日
天皇陛下広島大本営へ天機伺いのため本部長出張の伺
明治二十七年十月二十六日
天機伺のため明日より教長出立、松村吉太郎、山中彦七、篠森乗人の三名御供の願
明治二十七年十月二十七日
増野正兵衞身上の願
明治二十七年十月二十七日
井筒梅治郎妻とよ身上大熱に付願
明治二十七年十月二十八日
本席亭(ちん)の処御許しの願
明治二十七年十月二十八日 夜
中山たまへ歯の痛みに付願
明治二十七年十月二十九日
勝井鶴三郎田地二反余本部へ買い入れ御許しの願
明治二十七年十一月五日
本席身上御障りに付願(目の御障りなり)
明治二十七年十一月七日
教会設置の許しに付、本部親神様へ御許し下されし事なら、地方庁へ出願の際、親神様へ願う処手数恐れ入ります故、中山会長より直ぐと御下げ下さるようとの願
明治二十七年十一月七日
松村さく耳痛むに付願
明治二十七年十一月十二日 夜十二時三十分頃
本席目及び胸差し込むに付願
明治二十七年十一月十三日 午後二時
刻限御話
明治二十七年十一月十三日 午後五時
刻限御話